大河ドラマ・鎌倉殿の13人でも取り上げられた鎌倉幕府の有力御家人の一人、畠山重忠。
その重忠が生誕した埼玉県深谷市のゆかりのスポットを巡ります。
畠山重忠の墓所がある屋敷跡「畠山重忠公史跡公園」をはじめ、菩提寺や伝承の地を巡りながら、重忠の略歴や人物像、関連エピソードについても紐解いてゆきます。
目次
鎌倉幕府の有力御家人・畠山重忠と深谷
鎌倉幕府内の権力の座を巡る争いを描いた、2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
ドラマの舞台は鎌倉を中心に関東圏で、有力御家人たちも関東の武士達だ。
関東に住む身としては、比較的近場で登場人物ゆかりの地が発見できたりするのが楽しかったりするねえ。
そんな、鎌倉殿の13人でも重要人物として取り上げられた有力御家人の一人、畠山重忠。
そのゆかりの地である埼玉県深谷市を訪ねたので紹介します。
『畠山重忠公史跡公園』 重忠墓所がある屋敷跡
「重忠と愛馬三日月の像」 一ノ谷の戦い
畠山重忠は、平安時代末期から鎌倉時代初めにかけて活躍した武将。
文武両道に秀でて、人柄も謹厳実直とされ、「武蔵武士の鑑」とまでいわれる優れた武将と伝わります。
畠山重忠の生誕地は現在の埼玉県深谷市畠山で、重忠の館がこの地にはありました。
館跡は現在「畠山重忠公史跡公園」として整備され、公園内には畠山重忠の墓所があります。
公園の駐車場から入口に向かうと、愛馬・三日月を背負ってどど~んと立っている畠山重忠の銅像が出迎えてくれます。
勇ましくて迫力ありますなあ~。
先に、畠山重忠の誕生から源頼朝に仕えた辺りまでの、人物概略を紹介します。
- 畠山重忠関連概略年表(1) ~誕生から源頼朝の軍門へ~
- 1164年(長寛2年):畠山重忠は現在の深谷市畠山の地に生誕。
父は秩父氏の一族の畠山重能(しげよし)、母は三浦義明の娘もしくは江戸重継(しげつぐ)の娘。
幼名は氏王丸(うじおうまる)。
- 1180年(治承4年):
- ・源頼朝が伊豆で打倒平氏を目指し挙兵するが、石橋山の合戦に敗れ安房に逃れる。
- ・17歳の重忠は不在の父・重能に代わり、仕えていた平氏方として挙兵・鎮圧に向かう。
- ・頼朝は安房国で再起をはかり、約1ヶ月後に2万7千騎の大軍を味方にした。
- ・重忠は頼朝の軍門にくだることを決め、頼朝から受け入れられる。
武蔵国から鎌倉へ向かう頼朝軍勢の先陣を任される。
以降、源頼朝に仕え木曽義仲追討、平氏追討、奥州合戦などの戦いで活躍。
- 1190年(建久元年):源頼朝の京都上洛の際も、重忠は先陣を任される。
- 1192年(建久3年):源頼朝が征夷大将軍に任じられる。
最初に重忠と対面した源頼朝は、重忠の堂々とした態度に感心したと伝わります。
この勇ましい銅像は、源義経率いる平家攻略軍に参戦した「一の谷の戦い」(現、兵庫県神戸市)が題材です。
敵陣背後の断崖絶壁・鵯越(ひよどりごえ)から平家軍を急襲した際、重忠は愛馬三日月を思いやり背負って下りた!という逸話からきています。
また、木曽義仲を討った「宇治川の戦い」(現、京都府宇治市)では、冬の宇治川を歩いて渡り敵のいる対岸へ味方の武将を投げ上げた!という、なんとも勇ましい話が伝わります。
そんな感じで、どえらい怪力を持った男として多くの逸話を残しているんですよ。
公園は特段大きくも立派でもないですが、小綺麗に整備されている感じが伝わってきます。
比較的新しそうな慰霊碑もあり、史跡としても大事に扱われている様子です。
重忠の父・重能は、武蔵国秩父郡を居住地とする秩父家の家系でした。
武藏国男衾(おぶすま)郡畠山と呼ばれていたこの地に移り、畠山氏を称したのが姓の始まりとされます。
この地ゆかりの武将、と呼ぶにふさわしい家系ですね。
「畠山重忠公の墓」 北条義時に討たれた最期
畠山重忠の墓は公園の南側にあります。
神社のような雰囲気の建物は、昭和の終わりに造られたもの。
墓石の保護とともに、館跡の雰囲気を出す役割も担ってる感じですね。
以下に、源頼朝亡き後から最期を迎えるまでの重忠の概略を紹介します。
- 畠山重忠関連概略年表(2) ~頼朝亡き後から、重忠の最期まで~
- 1199年(正治元年):頼朝死去。息子・頼家が2代将軍となる。
その後、鎌倉幕府の有力御家人・北条時政が比企能員(ひきよしかず)を滅ぼし権力を握る。
- 1204年(元久元年):重忠の息子・重保(しげやす)が、時政の妻、牧の方の娘婿・平賀朝雅(ともまさ)と口論。これが発端で重忠父子に謀反の疑いが掛けられる。
- 1205年(元久2年):
- ・重保が由比ヶ浜で討ち取られる。
- ・重忠、二俣川(ふたまたがわ)(現、神奈川県横浜市旭区)で北条義時・時房率いる大軍に襲われ、重忠以下134名討死。
重忠は42年の生涯を終えた。
畠山重忠は幕府内の権力争いの中で謀反の疑いをかけられ、若くしてその生涯を閉じました。
社の中には現在6基の五輪塔が残されています。
元々この場所には4基の五輪塔があり、残り2基は近隣の満福寺から移されたと推測されています。
地誌によると、畠山重忠墓は元々は近隣の満福寺にあったとのこと。
4基のうち移動してきた2基がどれかは不明ですが、調査で造立時期は分かっている。
それにより、鎌倉時代後半までに造られた中央の五輪塔が伝畠山重忠墓、とされています。
左手の五輪塔は重忠の家臣・本田近常(ちかつね)の墓と伝わります。
合掌。
社の傍の供養塔「板石塔婆(いたいしとうば)」には、嘉元2年(1304年)の記銘がある。
重忠の戦死後100年忌にあたり、供養のために建てられたとされています。
この公園は市街地からは少し離れてますが、入れ替わりの訪問者が絶えないですね~。
地元に根差した人気武将のようですが、やはり大河ドラマの波及効果もありそう。
かくいう自身も、ドラマを見て訪問してみるか~ってなったクチだからね。
「重忠公ゆかりの石、句碑」 芭蕉が重忠を詠った!?
公園内には、他にも重忠ゆかりの碑などがあります。
入口の重忠像の袂にあった「重忠公ゆかりの石」。
これは重忠が投げたといわれる岩塊の一つだとか。
それでもって、この石の上に物を置いたり座ったりすると直ちに頭痛などが起こる、などとちょっと怖い伝承があるそうなんだわ。
丁度座り心地良さそうな形の石なんだが。。。
こちらは昭和に造られた、重忠を詠んだ松尾芭蕉の句碑。
「むかしきけ 秩父殿さえ すまふとり(=相撲取り)」。
秩父殿は秩父氏の裔である重忠のことで、その怪力ぶりを称えた内容だそう。
「畠山重忠公 産湯ノ井戸」
公園の東側には当時の井戸の跡があります。
重忠はこの地で父・重能の次男として生まれました。
その際、この井戸の水が産湯として使用されたとされ「重忠公産湯ノ井戸」と呼ばれています。
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畠山重忠公史跡公園
住所:埼玉県深谷市畠山510-2(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)秩父鉄道「武川駅」から3Km(車で約10分)
車)関越自動車道「花園IC」から約2km
『満福寺』
畠山重忠の菩提寺
「満福寺」は、畠山重忠公史跡公園から500~600m程の近隣にあります。
元々、重忠の五輪塔があったと伝わる寺院ですね。
満福寺は真言宗の寺院で、その歴史は古く平安時代の1110年頃の開基とされます。
平安時代末期の寿永年間(1182~1184年)に、重忠が再興し菩提寺としました。
現在の本堂は、江戸時代の寛政4年(1792年)の建立だそう。
本堂の東側には「重忠廟の碑」がありました。
いつの時代に造られたものかは確認できませんでした。
境内の西側には「観音堂」があります。
この観音堂には、重忠等身大の千手観音立像が守本尊として納められているそうですよ。
大きさは高さ6尺3寸だそうなので、約1.9m。
怪力の持ち主だった重忠は、身長もかなりデカかったようですね!
『井椋神社と鶯の瀬』
荒川の流れに重忠ゆかりの逸話
満福寺から北約200m程の場所の、畠山家ゆかりの「井椋神社(いぐらじんじゃ)」にも立ち寄ってみました。
北側は荒川に面しており、川沿いのへリに鎮座しています。
井椋神社は秩父吉田郷の地にて、畠山氏先祖の代から敬ってきた神社だそう。
重忠の父・重能が館を畠山に移した時に、分祀・勧請されたとのことです。
猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)が主祭神として祀られます。
源氏の白旗を祀ったとされる境内社「白旗八幡神社」。
そして、神社北側には「史跡・鶯(うぐいす)の瀬」の石碑があり、重忠にゆかりの逸話が残ります。
昔、畠山重忠公が川向うの乳兄弟・榛沢六郎成清(はんざわろくろうなりきよ)のもとに行った帰路、豪雨により洪水で川が渡れなくなった。
その時、一羽の鶯が鳴いて浅瀬を教えてくれた、という言い伝えの場所だそうだ。
それに関して、重忠が詠んだとされる歌があります。
「時ならぬ 岸の小笹(おささ)の鶯は 浅瀬たずねて鳴き渡るらん」
ちなみに榛沢六郎成清は、二俣川の戦いの中で重忠と共に討死しています。
鶯の瀬碑近辺からの荒川の流れ。
この辺は増水の時でも川瀬が変わらず浅瀬になっているそうで、重忠が川を行き来したと伝わります。
少し上流には平成に造られた巨大な灌漑用の堰があり、架かる橋には重忠橋の名が付いています。
『旧鎌倉街道』
北武蔵に向かう上道
帰り際、鎌倉街道の史跡が残るとされる場所に、車で立ち寄ってみた。
井椋神社から荒川沿い2~3km上流に向かった場所だが、ちょっとわかりずらかった。
アイリスオーヤマの大きな工場が目印になるのだが、幹線道路から外れぐるっと大回りした裏手なんだわ。
道端に「史跡・鎌倉街道の標柱」と、鎌倉街道上道(かみつみち)の説明板がありました。
鎌倉街道は「いざ!鎌倉~」と、御家人たちが鎌倉に駆けつけるため造られた街道ですね。
上道は畠山重忠をはじめとする、有力御家人が多い北武蔵に続く主要な道筋だったとされます。
ところで、こちらが周囲の様子ですが、はて、鎌倉街道跡ってどれのこと?
しばし周辺をウロウロ。。。
説明板には「道幅が4~6mの掘割状、下り始めると幅が広がり自然地形に沿った切り通しとなる」とあります。
良く見ると林の中にうっすらと窪地が見えます。
道はこの中にあり、藪に覆われて見えなくなっている状態と判断しました。
かつてこの林の中の道を重忠も馬で進んだのかもなあ、と外から眺め、思いを馳せながら本日の散策を終えます。
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畠山重忠ゆかりの地、深谷に出かけませんか?
埼玉県深谷市にある武将・畠山重忠ゆかりのスポットを紹介しましたが、いかがでしたか?
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では俳優の中川大志(たいし)さんが、クールかつ熱血漢な畠山重忠を好演されてました。
今回ゆかりの地を散策して、ドラマでのイメージに加え、巨漢でごつい体格のイメージが加わりましたわ。
訪問した深谷市ですが、2022年10月中旬、関越道の花園IC付近に大型ショッピングモール・ふかや花園プレミアムアウトレットがオープンします。
ということでショッピングがてら、誰かを誘って出かけるのも良さそうな場所になりそうですね!
深谷市の畠山重忠ゆかりのスポットに出かけてみませんか?
※記載している情報は現地にある説明看板の他、深谷市教育委員会作成のパンフレット「武蔵武士の鑑・畠山重忠」を参考にしています。
記事の訪問日:2022/10/2
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