歴史好きなら立ち寄ってみたい、埼玉県行田市にある少々マニアックなスポットを紹介。
行田にかつてあった忍城は、戦国時代の豊臣秀吉による小田原征伐において、石田三成軍より水攻めを受けます。この戦いは映画「のぼうの城」にも描かれました。
その水攻めの際に石田三成が広範囲にわたり築かせた堤、「石田堤」の一部が現在も残っているんですね。
その貴重な遺構をめぐりながら、石田三成がおこなった忍城水攻めの実態に迫ってみます。
目次
「石田堤」 石田三成が忍城水攻めで築いた堤
豊臣秀吉の小田原征伐の渦中となった忍城
室町時代に築城されたといわれる忍城(おしじょう)は、利根川や荒川などを自然の堀に見立てた堅牢な城で、関東七名城の一つにも数えられました。
戦国時代後期の天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉は天下統一に向けて小田原北条氏(後北条氏)の本拠地である小田原城と関東の支城を攻撃するという、小田原征伐をおこないます。
それにより北条氏方側についていた忍城も、その渦中の城となりました。
秀吉は総勢24万とも言われる大軍を関東に派遣。
対する北条氏は小田原城・山中城・鉢形城・松井田城などの主要拠点の守りを固め、忍城・岩付城・松山城などの有力支城の城主には将兵を率いて小田原城に入るよう命じます。
秀吉軍は北条氏方の諸城を次々と攻め落としてゆき、6月初めには石田三成に2万の軍勢を率いて忍城を攻めるよう指示します。石田三成は埼玉古墳群にある丸墓山古墳に本陣を張りました。
三成の忍城水攻めは映画・のぼうの城でも描かれた
石田三成が本陣を張った丸墓山古墳
城主不在の忍城城内にいたのは、逃げ込んだ領民を含めた2千7百人程度だったとされます。
少数勢だったにも関わらず堅城振りを見せる忍城に対し、石田三成は城周囲に大堤防を築き、そこに利根川・荒川から水を引くという水攻めを決行しました。
しかし忍城はこの水攻めに落城せずに耐え、「浮き城」の異名を得ることになります。
この浮き城のエピソードは、2012年の映画「のぼうの城」にも描かれました。
忍城の総大将役を飄々と演じた野村萬斎が印象的だったこの映画は、第36回日本アカデミー賞では作品賞をはじめ10部門を受賞しています。
水攻めの際に築かれた堤防は後世では石田堤と呼ばれましたが、実はその堤の一部が現在も遺構として残っているんですね。
その石田堤の遺構をめぐりつつ、石田三成がおこなった水攻めとは実際どのようなものだったのか?思いをめぐらせてみます。
\ 忍城址の詳細記事についてはこちら! /
「石田堤歴史の広場」 石田堤は実際どれくらいの規模だったのか?
遺構のある「石田堤歴史の広場」へは車での訪問でした。国道17号線から外れ、畑の景色が続く道をしばらく進みます。
目安になる建物も無いなか「この辺のはずなんだが。。。」と思い始めた頃に、見学者用駐車場の看板を発見でき、ほっ!
車を降りると、さっそく道沿いに一直線に続く堤が現れます。へぇ~、こんな感じなのか。城の土塁みたいですね。
広場周囲には282mの長さの石田堤の遺構が残っており、県の史跡に指定されています。
ここから南に進んで忍川(おしかわ)を越えると鴻巣市に入りますが、そちらにはさらに300mの遺構が残っています。意外とまとまった形で残っているようですね。
広場と周囲の除草・清掃等の保存活動は、地元のボランティアである石田堤を守る会の方々がおこなっているそうです。綺麗な状態で見学でき、ありがたいことですね!
全長14km?28km?諸説ある石田堤の規模
広場の堤上には2つの石碑が立ちますが、右側は江戸時代末期のもので、左側は新しい時代のものです。
さてこの石田堤ですが、その規模に関しては実は諸説あるんですね。広場にある案内板にはそれが客観的に分かり易く説明されていました。
石田堤の規模推定について
■ 大正2年(1913年)に地元の郷土史家・清水雪翁(せつおう)氏が実地調査。
地形や言い伝えなどから約14kmの堤を推定復元した、とあります。これが一つ、基準となる調査結果です。
■ 全長を28kmとする説もあり、これは結構良く耳にします。
■ 自然堤防を利用しており実際に築いたのは4km程度、という極端に小規な説もある。
といった具合。
構築方法は一律ではないようで、地形に合わせた手法がとられたようです。
行田市は古墳が多いことでも知られますが、取り壊した古墳の土も利用されたみたいですね。貴重な文化財が。。。
石田堤歴史の広場があるこの場所も、古墳時代・奈良~平安時代・中世における集落遺跡が発見されているエリアなんですって。
築堤期間についてはわずか5日間で築かれた、といわれます。凄い短期間の工事ですね。
ただし、忍城攻め開始の1ヶ月後に堤の補強が実施されており、突貫工事の後に補強しながら完成させたようです。
堤の全体像としては、自然堤防や高台を巧みにつなぎ合わせたものだったようだ。この広場周囲の堤も、自然堤防上に1~2m程度の盛土をしたものらしい。
石田堤跡は館林道の松並木として利用された
石田堤に沿って南に進むと、風情のある松並木が現れます。
忍城は水攻めに屈しませんでしたが、小田原城の開城にともない忍城も開城しました。石田堤も役割を終えたわけですが、その後もこの地域では壊さずに残されました。
そして江戸時代になると堤には黒松が植えられ、館林道の街道沿いの松並木として活用されたそうです。
現在は「石田堤の並木」として市の文化財に指定されていますが、現在残っている松は主に昭和40年代に補植されたものとのこと。
館林道について
館林道は別名「日光脇往還」と呼ばれ、中山道から鴻巣付近で分岐し、館林を経由して佐野で日光例幣使街道に合流する江戸時代の主要街道です。
1590年代に館林城主榊原康政によって整備され、徳川家康の日光への改葬行列にも利用されるなど、参勤交代や日光参詣や物流路として栄えました。
堀切橋は石田堤が決壊した場所だった!?
進むにつれ堤は道筋と共に緩い下り坂になり、その先で元荒川支流の忍川にぶつかります。
堤は忍川に交差する形で一旦途切れました。
川にはレトロな雰囲気の「堀切橋」と呼ばれる石橋が架かっています。
案内板によるとこれは昭和8年(1933年)に竣工された橋で、土木学会選奨の土木遺産に指定されているとのことだ。へえ~、貴重な橋なんですね。
そして案内板の説明には続きがあり。。。、この付近で石田堤が破堤したことが堀切橋の名の由来、とあるじゃないですか!
水攻めの際に堤は一度決壊しており、それが石田勢にダメージを与え失敗の一因になったとされます。
決壊箇所は忍川を堰き止める場所だったのでしょう。まさにここは歴史の現場なわけですね!
一説では地元で雇われた人夫が忍城に有利になるように手抜き工事をし、それが決壊につながったともいわれます。
石田堤歴史の広場の詳細・アクセス方法
石田堤歴史の広場
住所:埼玉県行田市堤根1251(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・JR高崎線「北鴻巣駅」東口から鴻巣市コミュニティバス フラワー号乗車で5分、吹上コース「袋」バス停下車、徒歩15分
・JR高崎線「吹上駅」北口から鴻巣市コミュニティバス フラワー号乗車で15分、「袋」バス停下車、徒歩15分
*「フラワー号」時刻表(鴻巣市)
・JR高崎線「吹上駅」東口から徒歩で約40分(約2.9km)
・JR高崎線「北鴻巣駅」東口から徒歩で約45分(約3.4km)
車)
・駐車場あり
「石田堤史跡公園」 堤の断面をガラス越しで公開
石田堤史跡公園は鴻巣市側の石田堤の遺構
堀切橋を越えた鴻巣市側の石田堤の遺構は、「石田堤史跡公園」として整備されています。
公園はシンボルモニュメントゾーン・堤修復ゾーン・堤跡保全ゾーン・広場活用ゾーンの4つのエリアで構成されています。
ここらはちょっと人里離れたひっそりとしたエリアですが、歴史公園として大切に整備されているようです。
平成元年から公園用地購入の交渉をはじめ(当時は鴻巣市に編入前の吹上町)、平成8年度から3年かけて史跡公園として整備した経緯の説明などがありました。
人夫に支払った築堤作業費は銭六十文と米一升
「シンボルモニュメントゾーン」は、野外ミュージアムみたいな雰囲気が楽しい。上越新幹線の高架下のこんなところに!?って感じの場所なんですがね(苦笑)。
中央の櫓の下に入ると人感センサーで解説音声が急に流れたのには、不意を衝かれてちょっとビックリ。
周囲に置かれた米俵のオブジェには、築堤作業時に人夫に支払われた賃金額が書かれていました。昼は銭六十文+米一升、夜は銭百文+米一升とのこと。
夜間はきちんと割増料金になっているのは、さすが秀吉軍ですね。払いはキッチリしていたようだ。
水攻め実施は豊臣秀吉の強い意志だった
水攻め関連の朱印状の紹介もあり、こちらも興味深い内容です。
写真の朱印状は、豊臣秀吉が天正18年(1590年)6月20日に石田三成に宛てたもの。
内容は「水責の普請を油断なく行うように」「浅野弾正(長吉)・真田(昌幸か)の両者を遣わすのでよく相談するように」「普請ができたら使者を派遣して見にいかせる」などなど。
忍城攻めに手を焼いている三成に助っ人の出動を指示したことや、秀吉が水攻めに執着していることが伝わってくる内容だ。
そもそも忍城への水攻めは、水攻めを成功させた実績を持つ秀吉が、その威厳を見せつけるためにおこなわせたものだった、と考えられています。
豊臣秀吉による高松城水攻め
天正10年(1582年)、豊臣秀吉は毛利氏支配下の備中高松城を攻めた際、水攻めをおこなった。
周囲の川を堤でせき止めて城を水没させ、兵糧攻めと心理的圧迫を仕掛けた。城は孤立し守将・清水宗治は講和を余儀なくされ自刃。
これは自然を利用した、秀吉の知略を象徴する戦いとされています。
「堤修復ゾーン」 石田堤の断面が見れる!?
シンボルモニュメントゾーンの先には、堤修復ゾーンがあります。
公園整備の際には発掘調査も実施され、堤の状態を確認しながら保存修復がおこなわれました。
ここはちょっとマニアックな見学ポイントっで、堤の断面がガラス越しで公開されています。歴史好きにとっての「萌え断」ってやつですかね(笑)。
断面は地層のようになっており、元々あった堤を固めながら、その上に盛土していった過程が読み取れます。(周囲が写り込んで少々見づらいのだが。。。)
断面展示の上は見晴らし台になっており、南に向かって堤が続く様が見られます。
堤の上を歩くことはできません。
堤沿いの道の先には駐車場とトイレ施設があるので、石田堤史跡公園側に駐車して石田堤歴史の広場方面へ歩くこともできますよ。
「堤跡保全ゾーン・広場活用ゾーン」
「広場活用ゾーン」「堤跡保全ゾーン」は、緑地公園として整備されています。あずま屋風の休憩所もありました。
木造の見張り場風の展望台からは、周囲ののどかな畑の景色が望めました。
その見張り場には一帯の航空写真があり、忍城址や三成が本陣を張った丸墓山古墳などの位置が示されていました。周辺スポットの散策や、サイクリングなんかも楽しそうですね。
ということで、本日の石田堤散策を終えます。
明治時代の初めにはまだこれだけ様々な城が残されていたんですね。
貴重な写真の数々に思わず釘付け!
石田堤史跡公園の詳細・アクセス方法
石田堤史跡公園
住所:埼玉県鴻巣市袋326-1(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・JR高崎線「北鴻巣駅」東口から鴻巣市コミュニティバス フラワー号乗車で5分、吹上コース「袋」バス停下車徒歩5分
・JR高崎線「吹上駅」北口から鴻巣市コミュニティバス フラワー号乗車で15分、「袋」バス停下車徒歩5分
・JR高崎線「吹上駅」東口から徒歩で約30分(約2.3km)
・JR高崎線「北鴻巣駅」東口から徒歩で約35分(約2.5km)
車)
・駐車場あり
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石田堤を歩いてみませんか?
石田堤の遺構を紹介しましたが、いかがでしたか?
城の周りに堤を造りそこに水を流す、そんな大掛かりな作戦をホントにやったんだな、って実際の遺構を見て改めて驚きましたね。
堤の断面を見たりとか、いささかマニアックな歴史スポットではありましたが(苦笑)、
忍城址と併せて立ち寄ってみると、興味深く楽しめるスポットだと思いますよ。
石田堤に出かけてみませんか?
記事の訪問日:2021/10/24
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