埼玉県熊谷市にある寺院・妻沼聖天山歓喜院には、建築物として県内で唯一国宝指定された本殿があります。
本殿の造営に際しては日光東照宮の修復にも関わった一流の彫刻師たちが集められ、その技術が惜しげもなくつぎ込まれました。
そして約25年の歳月が費やされて完成した豪華絢爛な本殿は、日光を超えたともいわれています。
そんな国宝建築物のある妻沼聖天山歓喜院の見どころを紹介します。
目次
「妻沼聖天山 歓喜院聖天堂」埼玉県唯一の国宝建築物
「貴惣門」岩国藩棟梁の秘伝の設計図によるもの

妻沼聖天山 歓喜院(めぬましょうでんざんかんぎいん)がある妻沼は市の中心部からは少し離れており、群馬県との県境にも程近い場所にありました。
歓喜院の参道に入ると、巨大な「貴惣門(きそうもん)」がどど~んと見えてきます。高さが16mあるという、どっしりとした重厚な門です。

門の全貌は正面からは少し分かりづらく、側面に回ってみると、妻側に3つの破風が重なった独特の形状であることがわかります。こんな形の門は初めて見ましたねえ。
貴惣門は国の重要文化財に指定されています。
屋根下は細やかな彫刻で装飾されていますが、それらにはそれぞれ寄進者の名前が刻まれています。
現在残る歓喜院の建築物は、武将などの時の権力者の庇護を受けて造られたものではなく、民衆信仰にもとづく寄付によって建造されていることが特徴の一つです。

この貴惣門の設計者は、遠く山口県岩国藩(吉川藩とも呼ばれる)で作事方奉行を担っていた長谷川重右衛門という人物でした。
長谷川重右衛門は日本を代表する木造橋の一つである岩国の錦帯橋の架け替えの際、棟梁を務めたという経歴を持つ人物です。
ここで岩国の名棟梁がなぜ熊谷の建造物を設計したの?という疑問が湧きますよね。それには以下のような背景がありました。
寛保二年の洪水と岩国藩の御手伝普請
寛保2年(1742年)、関東地方を襲った記録的な豪雨による大水害の復旧工事に、幕府命による御手伝普請で岩国藩吉川家がこの地に派遣されました。
吉川家の作事方棟梁・長谷川重右衛門は、安全祈願をするために再建中の聖天堂を訪問した際に、本殿の威容に驚きました。
そして、聖天堂の大工棟梁・林兵庫正清と意気投合した長谷川重右衛門は、宮廷建築大工としての秘伝による門の設計を引き受けます。
復旧工事を終え岩国に帰った重右衛門は、設計図を作成して林兵庫正清に送ったというわけです。
妻沼に拠点を置く大工棟梁・林兵庫正清も、日光東照宮をはじめとする幕府主導の建築物に関与した実力者でした。
当時は門を造営する余力がありませんでしたが、約100年後の林正清の5代目・正道の時代に、元の設計図よりも規模を拡大した形で竣工されたものが現在の貴惣門です。
東と西の名棟梁の意外な出会いが、このような歴史的な建造物を生み出したわけですね。
錦帯橋
山口県岩国市を流れる錦川に架かる木造の五連アーチ橋で、寛文13年(1673年)に岩国藩主・吉川広嘉が創建。洪水に強い構造を目指し、石垣上に反りのある木造橋を連ねる独特の形式が採用され、以後も幾度かの流失と再建を経て現在に至ります。
全長約193m・幅約5mで木材と金属を組み合わせた精巧な継手技術により、釘をほとんど用いずに組み立てられています。国の名勝に指定され、日本三名橋の一つにも数えられています。

1階の向かって右側には仏教の四天王の一人・毘沙門天(びしゃもんてん)像が納められています。こちらは口を開けた阿形の像。

左側に納められているのは、吽形の表情の持国天(じこくてん)像。

そして、良く見ると持国天の足元には奇妙な像が!
これは持国天が邪鬼を足で抑え込んでいる状況らしいですよ。
「斎藤別当実盛」保元平治の乱で活躍した歓喜院の創始者

斎藤別当実盛像
境内に入ると、歓喜院の創始者である斎藤別当実盛(さねもり)の像があります。
実盛は平安末期の武将で、当地の庄司(荘園の管理者)として、治承3年(1179年)に祖先伝来の御本尊・聖天様をお祀りしたのが妻沼聖天山の始まりとされます。
実盛像は右手に筆、左手に鏡を持っているという、武将像にしてはちょっと珍しい出で立ちのもの。
これは実盛が最期の戦の際に、若々しく戦いたい!との思いから髪を墨で染めた、という史実に基づく題材なんだそうです。
斎藤別当実盛(1111?~1183年)
平安末期の武将として、源氏・平氏の双方に仕えた。
美濃国斎藤氏の出身で、若くして源義朝に従い各地で活躍したが義朝没後は平氏方に属した。
寿永2年(1183年)の倶利伽羅峠合戦後、木曽義仲軍と戦い、加賀国篠原の戦いで討死した。その際、白髪を黒く染め若武者の姿で戦った逸話が平家物語に記されています。死後は勇将として名を残し、信仰や伝承の対象にもなっている。
中門は院内最古の建造物

中門
参道の中程にある「中門」は江戸時代初期の火災で唯一残った、歓喜院最古の建造物とのこと。

中門を抜けた本堂エリアの入口には、「仁王門」が建ちます。

元々は江戸時代初期に築造された仁王門がありましたが、残念ながらこれは明治時代の台風により倒壊。
現在の門は明治27年(1894年)に再建されたものです。
門の右側に納められているのは阿形(あぎょう)の像。

左側には吽形(うんぎょう)の像。
聖天山歓喜院は44年の歳月をかけて復興された

本殿
仁王門を抜けると拝殿が見えてきます。
国宝指定の本殿がある割には、拝殿は普通に落ち着いた感じの建物ですね。
歓喜院の御本尊は大聖歓喜天(だいしょうかんぎてん)と呼ばれる神で、聖天さまの呼び名で親しまれています。国指定重要文化財ですが、秘仏であり普段は公開されていません。
大聖歓喜天は仏教の守護神の一人で、どうやら象の頭を持つ神様らしいですよ。
ここで改めて、聖天山歓喜院の歴史概略を振り返っておきましょう。
聖天山の歴史概略
■治承3年(1179年):斎藤別当実盛が大聖歓喜天を祀り、聖天宮を開く。
■建久8年(1197年):良応僧都(実盛の次男・実長が出家)が、聖天宮の別当寺院として歓喜院長楽寺を建立。
■鎌倉時代~近世初頭:鎌倉幕府将軍・源頼朝が参拝。
■中世には忍(おし)城主より再建の庇護を受ける。その後、徳川家康によっても再興される。
■寛文10年(1670年):大火で聖天堂ほか焼失。以後65年間、仮本堂で法灯。
■享保20年(1735年):聖天堂再建開始。
■寛保2年(1742年):本殿竣工及び遷宮。
■安永8年(1779年):末社等含め、全て完成。起工より44年の歳月と総工費2万両。
■嘉永4年(1851年):貴惣門竣工。
こうして見ると、長い年月を掛けて根気よく再建されてきたことが改めて分かります。
「国宝・歓喜院聖天堂」日光東照宮の修復経験を持つ彫刻師らが集結

奥殿南側
さて、いよいよ国宝指定の本殿(奥殿)の見学です。
御本尊を納める本殿は歓喜院聖天堂と呼ばれており、拝観料を払うと間近で見学することができます。
歓喜院本殿が国宝として評価されたポイントとして、下記が挙げられるそうです。
■ 江戸末期における彫刻技術の高さに加え、更に漆の使い分けなどの高度な技術が駆使されている。
それらにより、近世装飾建築の頂点をなす建物であること。
■ そのような建物建設が民衆の力によって成し遂げられた点を、文化的に高く評価。
なるほど。そのあたりに注目して拝観したいと思います。
聖天堂では決まった時間のスタートで、無料で約30分のボランティアガイドの説明を受けることができます。私もガイドさんの説明を受けながら見学しました。

奥殿南側
本殿側にまわると拝殿側とはうって変わり、壁面の煌びやかな彫刻群が現れて思わず息を飲みます。
建築様式は拝殿・相の間・奥殿が一体化した権現造りで、奥殿は八棟造りと呼ばれるものです。
歓喜院聖天堂の設計は、大工棟梁・林兵庫正清とその子息・正信によるもの。
そして造営に際しては、正清の下に日光東照宮の修復経験を持つ彫刻師らが集結。
狩野派の絵師による彩色など、優れた技術が惜しげもなくつぎ込まれました。
完成までに約25年の歳月が費やされた本殿の彫刻は「日光東照宮をしのぐ」ともいわれ、装飾建築の成熟期を迎えた江戸時代末期における代表例となっています。
色漆や金箔を多用した豪華絢爛な彫刻

奥殿南側
拝観が始まってまず驚いたのは、軒下までビッチリと装飾が施されていること。
しかも壁面同様に色漆や金箔がふんだんに使われ、鮮やかな色彩で細やかに仕上げられています。これは凄いですね!

彫刻は上部の大羽目彫刻を中心に展開されており、そこには中国の故事や七福神をテーマに、人物や動物が生き生きと描かれています。
写真の彫刻で描かれてるのは、七福神の一人の福禄寿。
周囲に鶴・亀がいて竹・梅もあり、お目出たいものが揃っていますが、なぜか松だけは描かれていない。
実は歓喜院では、松は彫刻の絵柄のみならず、木材にも一切使われていないとのこと。へえ~、ですね。
聖天様にはなにやら「待つのが嫌い」になった出来事があり、その際に松も嫌いになったんだそうだ(苦笑)。
そんなちょっと親しみが湧くようなエピソードを、ガイドさんが紹介してくれました。

浮き彫り彫刻の「鷲(わし)に猿」(右側)には、鷲が川に落ちた猿を助けている場面が描かれています。
猿は人間に、鷲は神様に例えられており、大聖歓喜天の慈悲深さが表現されているとのこと。
これは日光東照宮の「眠り猫」の作者として知られる、かの左甚五郎作であるともいわれています。

70頭以上施されているという龍の彫刻。その全てにおいて、姿形・色が異なっているとのこと。

南壁の縁下腰羽目彫刻
南西北の三面には、「唐子遊び」と呼ばれる子供たちの遊ぶ姿で平和な世が表現されています。
ここで描かれているのは「小間取遊び」と呼ばれるもので、日本の手つなぎ遊びの元祖といわれるもの。
見物者の腰の高さにはめ込まれている縁下腰羽目彫刻は、間近でじっくり見ることができます。

布袋・恵比寿・碁打ち大黒(西側中央)
こちらの彫刻では、七福神が酒を飲みながら囲碁に興じています。
中央の彫刻は布袋が恵比寿の碁の一手を見守り、その横で大黒天が見守る様子。
右の彫刻では大黒の俵で、左の彫刻では布袋ぶくろで、それぞれ子供達が遊んでいる姿が描かれています。
のんびりとした、なんとも平和な世の雰囲気が伝わってきますよね。

布袋・恵比寿・碁打ち大黒(西側中央)
細部の精密さを見て頂きたく、碁打ちの彫刻のアップを入れてみました。
どうです?碁石や碁盤、布袋尊の袋の立体感って凄くないですか?思わず目が奪われますよね。
置上彩色による立体感のある彫刻

こちらは奥殿の北側の壁面。

毘沙門天・吉祥天・弁財天の双六(北面)
吉祥天(左)と弁財天(右)の2人の女性の神様が双六に興じ、その展開を毘沙門天が見つめるという、ちょっと微笑ましい感じの一コマ。
ここでは特に着物部分に緻密な立体感が感じられますよね?
これは塗料の重ね塗りにより立体感を出すという、「置上彩色(おきあげさいしき)」と呼ばれる高度な技法が駆使されています。

斗供(ときょう)と呼ばれる部分に乗り、高欄を支えるような姿の猿が可愛らしい。猿は全部で13頭めぐらされています。
という感じで、ガイドさんの説明や豆知識を聞きながら、本殿を楽しく参観させて頂きました。
国宝聖天山堂拝観について
受付時間:平日 10:00~15:00 / 土日祝日 9:30~16:00
拝観時間:平日 10:00~15:30 / 土日祝日 9:30~16:30
拝観料:700円
ボランティアガイド(無料):
平日 11時・12時・13時・14時 /
土・日・祝(10時・11時・12時・13時・14時・15時)
*時間は約30分程度、上記以外の時間は音声のガイドとなります。
拝殿正面では籠彫り彫刻などにも注目!

奥殿参観の後、改めて拝殿正面の彫刻を見学しました。
拝殿の装飾は本殿の格調の高さを強調するために、あえて簡素な色調にしているとのこと。

龍の彫刻、その上には琴・囲碁・書・絵の4芸を題材にした羽目彫刻がありました。

中国では鯉から鯱(シャチ)へ、鯱から飛龍へ、最後に龍へ出世・変身する、という伝説があるそうです。
これはその変身する過程が題材とのこと。
ちなみに彫刻で使われている技法は「籠彫り」と呼ばれるもので、木の固まりを籠のように抉り抜いて彫ってゆくもの。
素人目に見ても、作業が難しそうなことが伝わってきますわ。

今にも飛び掛かって来そうな虎がいますが、その両脇を固めている天邪鬼らしきものがちょっとユーモラスな感じだった。
「大師堂・平和の塔」関東88カ所霊場

本殿の南側にある大師堂には、弘法大師が祀られています。
こちらは関東88カ所霊場の一つに数えられており、最後の第88番札所となっています。

本殿の北側にある「平和の塔」は、昭和33年(1958年)に建てられた戦没英霊の供養塔です。国登録有形文化財に指定されています。
「なぜ、こんなところに?」に、と驚くような場所にある寺や神社の写真入り
の紹介を見れば、きっと実施に見に行きたくなるはず!
妻沼聖天山の基本情報・アクセス
妻沼聖天山
公式ページ
住所:埼玉県熊谷市妻沼1511(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・JR「熊谷駅」より朝日バス太田駅行き、又は西小泉駅行き、又は妻沼聖天前行き乗車約30分、「妻沼聖天前」下車徒歩1分
・東武「太田駅」より、朝日バス・熊谷駅行き乗車約20分、「妻沼聖天山前」下車徒歩1分
車)
・関越自動車道「東松山IC」「花園IC」より約45分
・東北自動車道「羽生IC」「館林IC」より約45分
・北関東自動車道「太田桐生IC」より約40分
・無料駐車場境内駐車場約300台又は、めぬま観光駐車場使用可
熊谷ランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
\ 特産の大和芋や国黒豚角煮など、旨いもの充実!/
妻沼聖天山に出かけてみませんか?
歓喜院聖天堂はさすが国宝指定されているだけあって、素晴らしいものでした。
でも、埼玉県民である私でも今まで存在を知らずに、今回初めての訪問だったんですよね。もっと知名度が上がり、多くの方々に見て欲しいと思いました。
国宝建築物を拝観しに、妻沼聖天山に出かけてみませんか?
記事の訪問日:2023/1/14




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