江戸日本橋を発ち、千住宿、草加宿を経て辿り着く日光街道3番目の宿場、越ヶ谷宿。
今も旧街道を歩けば重厚な出桁造の軒先や、真っ白な漆喰の蔵が目に入ってきます。
しかし越ヶ谷の真の姿は、単なる「古い街並み」ではありません。ここは元荒川の水運と日光街道が交差する、江戸近郊最大級の「物流ハブ」でした。
今回は建築遺構をヒントにしつつ旧街道を歩き、徳川将軍が愛し、豪商たちが築き上げた越ヶ谷宿の知られざる解像度を上げてゆきます。
目次
越ヶ谷宿は千住宿に次ぐ規模の宿場町

江戸時代の五街道のひとつである日光街道は、江戸日本橋から徳川家康公を祀る日光山東照宮への主要道路として整備された、全長約142kmに及ぶ街道です。
その道中には21の宿場が置かれましたが、「越ヶ谷宿」は江戸から数えて3番目の宿場町。
そして城下町であった宇都宮・古河を除けば、人口・家数において日光街道の宿場町の中では千住宿に次ぐ規模を誇っていたんですね。
天保14年(1843年)頃の越ヶ谷宿の規模
●家数:1,005軒
●本陣:1軒
●脇本陣:4軒
●旅籠:52軒
●人口:4,603人
※「日光道中宿村大概帳」による
1,000軒を超える家数と、通常は1〜2軒である脇本陣が4軒と突出している点に目がゆきます。
また、宿場町の長さは約2kmにも及び、これは小規模な宿場の数倍にあたる長さでした。
それにしても、どうして越ヶ谷宿はそこまで発展したのでしょうか?本日は旧越ヶ谷宿を歩きつつ、その謎に迫りたいと思います。
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「越ヶ谷宿」蔵が語る商業で発展した町の面影
元荒川越しで一体化していた越ヶ谷宿と大沢宿
実は越ヶ谷宿は2つの宿(町)から構成されていました。

清水秋全『武奥増補行程記 12巻』[2],写. 国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/2577825 (参照 2026-02-24)
元荒川を挟んだ南側に続くのが越ヶ谷宿(越ヶ谷町)。そして北側に続くのが大沢宿(大沢町)で、一般的に越ヶ谷宿と呼ぶ際はその2宿の総称として使われます。
越ヶ谷宿は慶長7年(1602年)に宿駅制度が定められた当初に、越ヶ谷町の街道沿いに伝馬継立所として家並みが造成されて始まりました。
越ヶ谷町は古くから六斎市が開催されていた”商いの町”でしたが、宿場町としては周辺の村々(四町野・花田・瓦曽根など)から住民が移住して作られた人工集落だったそうです。
一方の大沢宿は、当初は大沢村として越ヶ谷宿の助郷(人足や馬を提供する夫役)の役割を担っていましたが、後に宿駅に加わります。
こちらも越ヶ谷宿と同様、当初近隣の鷺後(さぎしろ)や高畠から住民が移住して街並みが形成されたといいます。
越ヶ谷:商家の町、大沢:本陣や旅籠が集中
東武越谷駅東口を出て駅前の通りを真っすぐ歩くと、1~2分程で越ヶ谷宿があった旧日光街道にぶつかる。

現在、日光街道の道筋は国道4号線が踏襲していますが、街道の旧市街地部分においては、その外側に新道を通しているケースが多いんですね。
越谷においても国道4号線は市街の東側を通っているので、旧日光街道筋が街中に残されています。

ここから、約1km程続く旧越ヶ谷宿(越ヶ谷町)に入ります。
越ヶ谷宿・大沢宿の町としての性格を見ると、越ヶ谷町側には商家が集中し、大沢町側には本陣・脇本陣や旅籠などの宿場機能が主に置かれるなど、役割分担が明確だったのが特徴的です。

田中米穀店
歩き出すと現代の建物の合間に、街道の面影を残す古い建物がポツリポツリと点在していました。
こちらの「田中米穀店」は、昭和初期に建てられた築90年以上の木造建築物。
2階にある、雨戸を収めるための銅板製の戸袋が特徴的です。

行徳屋
そのはす向かいに建つ「行徳屋(ぎょうとくや)」の2階にも、田中米穀店と似た雰囲気の銅板戸袋が見られるので、おそらく同時期の建物なのでしょう。
築年代からすると、銅板戸袋は大正12年(1923年)の関東大震災を受けての防火対策だったのでは?
関東大震災では約10万5千人の犠牲者が出ましたが、その約9割が火災による犠牲者だったそうですよ。
\ 関東大震災後に流行った看板建築の紹介はこちら!/

その先には一転して西洋風のレトロ建築物の登場だ。
昭和10年(1935年)に越谷郵便局として建てられ、現在でも横田診療所として使用されているもの。雰囲気ある建物ですなあ。
「油長内蔵」掛子塗扉が物語る大火との戦いの歴史
街道の入口から400m程歩き、少し住宅街に入った場所に、国登録有形文化財指定の「油長内蔵(あぶらちょううちくら)」があります。

宝暦元年(1751年)~天保元年(1830年)頃に建てられ、商家の家財蔵として使用された2階建ての土蔵です。
白漆喰塗の外壁、瓦葺葺きの切妻造りで、屋根の大棟(最頂部)に積み上げられた瓦にはデザイン性が感じられますね。
持ち主だった山崎家は、肥料商を営んでいた越ヶ谷の名家の一つ。
屋号の”油長”は、祖先が近隣の農家で生産された菜種を買い取り、江戸に出荷していた事に由来するものとのことだ。

そして注目したいのが観音開きの分厚い扉と、その噛み合わせ部分にある段々のデコボコ。
これは合わせ目を階段状に合わせる、“掛子塗り(かけこぬり)”と呼ばれる技術。
閉めると段がピタッと重なり小さな火の粉の侵入さえも許さない、という優れた防火技術なんですよ。
江戸時代の越ヶ谷宿は街道に面して木造家屋が密集していたため、多くの大火が発生しました。
享保14年(1729年)や天保14年(1843年)に発生した大火では、それぞれ宿場の半分以上が焼失したといいます。
そのため、残念ながら越ヶ谷宿には明治以前の木造建築物はほとんど残っていません。
それらの歴史から、念入りに防火対策された建物には、ーーー”幾多の火災からの復帰を誓ってきた”商人達の強い執念が感じられます。

蔵の保存のきっかけは、分譲住宅開発地に複数の古い蔵がポツンと残っていたこと。
その内、保存状態の良かった内蔵を、街のシンボルとして修繕・保存しよう!という試みだったんだそうだ。
移築に際しては、解体せずにそのまま移動する曳家(ひきや)と呼ばれる工法が採られました。
現在はNPO法人の運営により、コミュニティ施設や蔵カフェとして運営されています。
越谷の街では原風景である古い建物を残す活動がおこなわれていますが、ここはその象徴的な存在といえそうですね。
まちづくり相談処 油長内蔵
公式ページ
住所:埼玉県越谷市越ヶ谷三丁目2-19-5 (GoogleMapで開く)
開館時間:10時~17時 ※イベント開催時には変更する場合があり。
休館日:水曜日、年末年始 ※その他随時に休館することもあり。

街道に戻った後、油長内蔵の一つ先の路地に入ってみたら、ずっーと続く黒塀が現れてちょっとビックリ。
これは幕末期の有力商人だった、有瀧家(ありたきけ)の屋敷の塀が残っているもの。
さらに、その脇に通っている道は赤山街道と呼ばれる古道で、江戸幕府の関東郡代を務めた伊奈忠治が築いた赤山陣屋(現、川口市)に通じる道の一つ。
屋敷塀と古道の組み合わせが、なんとも歴史を感じさせる景観ですね。
\ 関東郡代であった伊奈氏の館・赤山陣屋の詳細についてはこちら!/
「中町浅間神社」宿場を見守った樹齢600年のケヤキ
越ヶ谷町の街道の半ばを過ぎた辺りで、車の往来も多い青葉通りにぶつかります。
その交差点近くにポツンと鎮座するのが「中町浅間神社」。

室町時代以前に創建された古社で、社名から分かる通り富士山信仰の神社。
盛土された鎮座地も富士山に見立てられているのでしょう。
境内に立っているのは越谷市内で一番大きなケヤキ。
樹齢約600年といわれている、越ヶ谷宿の歴史を見守り続けてきた古木となります。
「木下半助商店」国登録文化財が語る明治の商いの姿
青葉通りを越えると通りの様相が少し変わり、今までポツポツだった古い建物が、こちらでは集中して見られるようになった。

通りを越えた所にまずあったのが、国登録有形文化財にも指定されている「木下半助商店」。
明治時代の建物は、当時の商店の特徴をよく残してます。
正面の店舗及び土蔵は、明治31年(1898年)~明治54年(1912年)頃に建てられたもの。
手前には鉄板・銅板葺の平屋建ての木造家屋があり、その背後には2階建ての土蔵造があるという、木造・土蔵が混合した造りだ。
せり出した軒は、客や商品への日除け・雨除けの役割を担っていたことでしょう。

木下半助商店は江戸時代創業の道具店。
現在も金物屋として営業が続いており、建物もその店舗として現役で使用されています。

店舗以外は一般公開されていませんが、中町浅間神社の駐車場から塀越しにチョイと拝見。
右手が店舗の正面側で、その裏手に石蔵や主屋がずらっと続いている。こんなに長細い敷地なんですねえ。
この「間口が狭く、奥行きが長い短冊状」という町割は、江戸時代の宿場町においては良く見られる傾向。
これは宅地に対する年貢や諸役の基準が、面積ではなく、道路に面した間口の広さを基準とすることが多かったためなんですね。
「小泉家」レンガの防火壁を完備!店舗と蔵が並ぶ屋敷
木下半助商店のはす向かいに立つのが、呉服商だった「小泉家」の建物。

小泉家
商家の建物が綺麗に一式残っており、見応えがありますねえ。越谷において、店舗と蔵が横並びで残る唯一の建物といわれています。
さらに注目したいのが蔵の左手に立つ、レンガ製の”うだつ”と呼ばれる防火壁。
この防火シェルターと蔵との組み合わせにより、念入りな耐火対策が施されています。

小泉家
明治8年(1875)築の蔵部分は、明治に起きた大火でも燃えずに残ったもの。
一方、戸口の格子が印象的な店舗兼自宅は、大火後の明治32年(1899年)に再建された部分です。
宿場税を気にせずに間口を広く取れ、さらに、うだつに費用が掛けられていることからも、小泉家がかなりの資金力を持った名家であったことが伺えます。

鍛冶忠商店
小泉家の先にある「鍛冶忠(かじちゅう)商店」は、明治33年(1900年)に建てられた蔵造りの建物。
現在も雑貨・荒物を扱う店舗として使用されており、ピンクの扉が新旧の混在を感じさせます。
「はかり屋」軒下の出桁造に刻まれた繁栄の証
越谷では古い建物をリノベーションして利用している店舗も多いですが、その集大成的な存在がこちらの「はかり屋」です。

はかり屋は明治時代に秤(はかり)を販売していた商家・旧大野邸で、改装により古民家複合施設として利用されています。
主屋と敷地内の土蔵の2軒は、国有形文化財に指定されているもの。
通りに面した住宅主屋は明治38年(1905年)築の切妻造桟瓦葺の二階建てで、全面が格子戸になっている出入口にデザイン性を感じさせます。
前面に突き出した軒先が商家らしい佇まいを見せますが、これは太い桁を建物の外側にはみ出させて見せる出桁造(だしたげづくり)という造りによるもの。
出桁造の技法は、江戸時代から明治・大正にかけて商家建物で良く使われました。

敷地内に入ると現れたのが、実にノスタルジックな空間。一気に江戸時代の町角に入り込んだ気分になります。

もう一方の国有文化財である黒漆喰塗りの住宅土蔵は、明治16年(1883年)~明治33年(1897年)頃に建てられたもの。
元々は倉庫の役割から始まった土蔵ですが、やがて住宅蔵や店蔵へと発展してゆきました。
はかり屋では、これらの建物の中でレストランやショップが営業されています。
はかり屋
公式ページ
住所:埼玉県越谷市越ヶ谷本町8-8(GoogleMapで開く)
営業時間・休業日:店鋪によって異なります
アクセス:
電車)東武「越谷駅」より徒歩8分
車)近隣のコインパーキングは駐車できる数に制限があります。

米長乾物店
はかり屋の先の「米長(こめちょう)乾物店」の建物が見えてくると、この辺りが旧越ヶ谷宿(越ヶ谷町)の北端となる。
米長乾物店の建物も古いもので、築120年近くといわれる木造建築物。
なぜ越ヶ谷宿は発展した?「越ヶ谷御殿」と「水運と陸路の交差」

元荒川
江戸時代の越ヶ谷宿の規模は日光街道のなかでも屈指のものでしたが、その繁栄の理由はどこにあったのでしょうか?
大沢橋を越えて旧大沢宿に入る前に、関連スポットに少し立ち寄ってその理由を探ってみます。
「越ヶ谷御殿」家康・秀忠が足しげく通った、将軍専用の宿泊所

大沢橋から元荒川沿いを東に500mほど歩いた場所にあるのが、こちらの「越ヶ谷御殿跡碑」。
実は江戸時代初期の越ヶ谷には、徳川将軍家の御殿があったんですよ。
越ヶ谷御殿について
慶長9年(1604年)、徳川家康によりに現在の御殿町に建てられた将軍家の別荘です。
当時、低湿地地帯であった元荒川沿いの周辺には、多くの野鳥が生息。そのため徳川家康や2代将軍・秀忠はこの御殿に宿泊し、民情視察を兼ねて頻繁に鷹狩りをおこなっていました。
秀忠においては元和4年(1618年)に約半月近く、元和6年(1620年)には1ヶ月余りの間、側近を連れて越ヶ谷に逗留したことが幕府公式記録・徳川実紀にも記されています。
越ヶ谷御殿の建物は明暦3年(1657年)に発生した江戸最大の大火「明暦の大火」の後、江戸城二の丸に移されて将軍の仮殿として使用されました。
越ヶ谷御殿は江戸時代初期に無くなりますが、将軍やその侍者たちの受け入れ態勢を整える必要があった越ヶ谷は、道幅や町割り、物資調達や馬の差出し体制などが早い時期から整備された町だったと考えられます。
\ 徳川将軍も立寄ったという、久伊豆神社についての詳細はこちら!/
越ヶ谷御殿
住所:埼玉県越谷市御殿町2(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・東武「越谷駅」もしくは、「北越谷駅」より徒歩約18分(1約.3Km)
車)
・駐車場なし
越ヶ谷は江戸の食卓を支えた”物流ハブ”だった
越ヶ谷を発展させたもう一つの背景が、”水郷”と呼ばれていた、一帯に複数の川や用水が流れているその土地柄です。

まず陸路の観点で見ると、江戸日本橋から越ヶ谷宿までの6里8町(約24km)という距離が、おおよそ旅人の1日の移動距離でした。
これにより、参勤交代の諸大名や日光参拝客の主要な休息地となります。
一方、元荒川・綾瀬川・古利根川などでは舟運が盛んとなり、高瀬舟などが行き交っていた。
元荒川では大沢橋の2~3km程下流にあった瓦曽根(かわらぞね)河岸が主要な集積所として利用され、江戸に向かう舟荷と、越ヶ谷宿・中山道方面へと向かう舟荷の積み替えがおこなわれました。
江戸への主な積み荷は、近隣農村で生産された米、麦、大豆、酒、木材、藍などの染料、薪炭など。
街道と水路が交差する地点にあった越ヶ谷宿は、江戸の生活を支える重要な物流ハブとして大きく発展した、というわけです。
大沢橋のたもとに眠る、陸路と水路の交差点の記憶
「大沢宿場跡公園」明治天皇が小休された本陣跡
宿場町歩きに戻って、元荒川に架かる大沢橋を渡り旧大沢宿に入りました。

かつて大沢橋のたもとにあった舟着き場には、近隣の村からの農作物が集積され賑わったといいます。
ここで舟に載った積み荷は、下流の瓦曽根河岸で江戸行きの舟に積み替えられたのでしょう。

大沢橋の先にあったのは「大沢宿場跡公園」と称された広場。
令和6年(2024年)に整備されたというので、まだ新しい施設ですね。

広場には昭和17年(1942年)に造られた「明治天皇大澤御小休所の石碑」があります。
この碑は明治天皇が東北地方に巡幸した際に、大沢宿の旧本陣・福井権右衛門宅で御小休されたことが示されたもの。
明治天皇は明治9年(1876年)に1度、明治14年(1881年)には2度の合計3回、福井権右衛門宅に立寄られています。
明治9年の際には岩倉具視・木戸孝允らが、明治14年には有栖川宮熾仁親王・大隈重信らがそれぞれ供奉されたとのこと。
福井本陣はここから130m程先にありましたが、現在は残っていません。

この先も大沢宿側の旧日光街道が続きますが、こちらの街道沿いでは、古い建物や史跡碑のようなものは見つけられませんでした。
「香取神社」旧大沢宿の鎮守、本殿の彫刻は必見!
越谷駅の隣駅である北越谷駅近辺まで歩き、この辺りが旧大沢宿の終点。
北越谷駅から程近い場所にある、大沢宿鎮守「香取神社」に立ち寄ってみました。

室町時代の創建とされる香取神社は、古くから地元の鎮守神として信仰されてきた神社。
江戸時代には街道沿いの場所柄、旅の安全祈願をする参詣者が多かったようです。

拝殿は比較的新しそうでしたが、慶応2年(1866年)に築造されたという本殿は歴史を感じさせるものだった。

本殿
いやあ、所狭しと壁面に彫られたこの彫刻群は凄いですね!目が奪われます。
大黒天や龍などのほか紺屋の作業を表現したものもあり、民俗資料としても貴重な彫刻なんだそうだ。
これはなかなか良い物が見られました。
”はかり屋”でランチを楽しもう!
「ミネット」キッシュとフレンチ惣菜(閉店)

先に紹介した「はかり屋」は食事も楽しめるスポット。
ということで、国登録文化財の土蔵内で営業しているキッシュとフレンチ惣菜が頂けるお店、「ミネット」でランチにしました。
※ミネットは2021年4月30日をもって閉店。2021年6月より肉とワインとジビエの古民家ビストロ「ウエトロ」が入店しています。

キッシュとドリンクの他に総菜が2種とサラダとスープ、そしてバケットのセット。
見た目の可愛らしさに反して、キッシュはズシっと食べ応えがあり満腹に。
ご馳走様でした。

古民家複合施設というだけあって、レストランの他にも無農薬野菜を扱った直販所「遊佐農場」や、リラクゼーションマッサージ「yururi」など、多彩に楽しめるスポットでした。
【記事の参考にした情報】
・越谷市史一通史上 越谷市教育委員会
・越谷ふるさと散歩上 越谷市教育委員会
・文化財オンライン「旧山﨑家住宅(油長)内蔵」 文化庁
・文化財オンライン「木下半助商店店舗及び土蔵」 文化庁
・文化財オンライン「旧大野家住宅主屋」 文化庁
・文化財オンライン「旧大野家住宅土蔵」 文化庁
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越谷観光のお役立ち情報
「ガーヤちゃんの蔵屋敷」 観光物産拠点、御宿場印の販売も

帰りには越谷駅東口にある観光物産拠点施設「ガーヤちゃんの蔵屋敷」に立ち寄って、記念の「御宿場印」を購入しました。1枚300円ナリ。
この時は越谷の名産品のだるまをオマケで頂けました!
ガーヤちゃんの蔵屋敷(観光物産拠点施設)
住所:埼玉県越谷市弥生町505-2(越谷駅東口高架下)(GoogleMapで開く)
営業時間:9:30~19:30
休館日:月2回、年末年始
越谷へのアクセス情報
越谷へのアクセス
電車)*最寄り駅は東武「越谷駅」
・東武スカイツリー線「北千住」から「越谷駅」まで急行で約17分
・東武アーバンパークライン「大宮駅」から「春日部駅」まで急行で約21分、東武スカイツリーラインに乗換で「越谷駅」まで急行で約10分
車)
・東京外環道「草加IC」から約5km、東北道「浦和IC」から約7km、常磐道「三郷IC」から約10km
越谷ランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
周辺おすすめスポット(久伊豆神社ほか)
越谷久伊豆神社
江戸時代初期に越谷には徳川将軍の御殿があり、近隣にあった当社には徳川秀忠や家光が参拝に立ち寄ったと伝わります。
緑豊かな境内を参拝すると癒されます。
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久伊豆神社
住所:埼玉県越谷市越ヶ谷1700(GoogleMapで開く)
※東武「越谷駅」から徒歩約25分(約2km)、車で約15分。※東武「北越谷駅」から徒歩約20分(約1.5km)、車で約10分)
花田苑
季節の草花の楽しめる日本庭園です。
日本庭園内には、全国でも数少ない屋外能舞台である「こしがや能楽堂」があります。
花田苑
住所:埼玉県越谷市花田6丁目6(GoogleMapで開く)
※東武「越谷駅」から朝日バスで約10分乗車、「花田苑入口」下車、徒歩約3分
日光街道 旧草加宿歩き
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風光明媚な風景が楽しめ、散策におすすめです。
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旧越ヶ谷宿を歩いてみませんか?
現代の越谷は、便利なショッピングモールや住宅街として知られています。
しかしその足元には、知恵を絞って街道有数の経済拠点を築き上げた、先人たちの熱量が眠っているんですね。
「なぜ、ここにこの道があるのか?」「なぜ、この蔵は残ったのか?」
その答えを探して旧街道を歩き終えたとき、越谷という町のことが昨日よりも少しだけ好きになっているはず。
その奥深い物語の続きを、ぜひ現地で確かめてみてください!
記事の訪問日:2021/3/14
*2026年2月:大沢宿場跡公園の項を追記




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