奈良時代が起源とされ千二百年の歴史を持つ古刹「岩殿山 安楽寺」は、源頼朝の異母弟である源範頼がかつて幼少期に身を隠したと伝わる寺院です。
また、その後に吉見に館を構えた源範頼は、自身の所領や本堂・三重塔などを寄進するなど、範頼ゆかりの寺院となっています。
現在の安楽寺には、県内最古の三重塔をはじめとする江戸時代の建造物が残っており、かつて大寺院として栄えた歴史を今も感じさせます。
目次
「岩殿山 安楽寺(吉見観音)」 江戸時代の伽藍が残る古刹
参道では強面の金剛力士像が出迎え
埼玉県のほぼ中央部に位置する吉見町。
吉見町といえば古墳時代の横穴墓である、国指定史跡・吉見百穴で良く知られています。
その他にも戦国時代には武蔵松山城などがあったりと、歴史好きには見どころの多い町なんですよね。
そんな吉見町に歴史を感じさせる古刹があると聞いて、本日は訪ねて来ました。
駐車場で車を降りると、一直線に続く参道が現れます。
参道の両脇で睨みを利かせていたのは金剛力士像。
こちらは右手にある、口を開けた阿形(あぎょう)の形の像。結構本格的に強面の金剛力士像ですね。
こちらは左手の吽形(うんぎょう)の像。
貫禄を感じさせますが、平成4年(1992年)に奉納された比較的新しいものでした。
参道にポツンと一軒あったのは、昔ながらの感じの厄除けだんごのお店。
覗いてみると、名物のだんごや甘酒などの参道らしいメニューに混じって、抹茶パフェなんて洒落たものもあったり。帰りに寄ってみようかな。
「坂東三十三観音霊場」の十一番札所
参道の突き当りの小高い場所に、境内の入口がありました。
真言宗智山派の寺院である安楽寺は「岩殿山 安楽寺」が正式名ですが、古くから「吉見観音」の名で親しまれているそうです。
そして石柱にも銘記があるとおり、安楽寺は「坂東三十三観音霊場」の十一番札所に数えられています。
坂東三十三ヶ所霊場について
鎌倉を起点に、関東7県(神奈川・埼玉・東京・群馬・栃木・茨城・千葉)に点在した寺院で構成されている霊場です。
全行程は約1,300kmに渡っており、徒歩では40日以上の日程を要するという、非常に広範囲に及ぶ霊場です。
鎌倉幕府将軍・源頼朝が観音信仰に熱心だったことが、この霊場整備の背景にあるといわれています。
ちなみに、安楽寺の他にかつての比企郡だったエリアには、第9番・慈光寺(現、ときがわ町)、第10番・正法寺(現、東松山市)と計3ヶ所もの霊場が集中して設定されています。
これは、鎌倉時代にこの地域を治めていた有力武士、比企能員(ひき よしかず)の影響力があったためと考えられます。
\ 比企能員ゆかりの正法寺についてはこちら!/
「仁王門」三棟造りは法隆寺の東大門と同じ様式
入口に建つ山門は、両側内部に仁王像を納めている「仁王門」でした。
元禄15年(1702年)に建造された門で、三棟造り(みつむねづくり)と呼ばれる様式のもの。
三棟造りは門の前後にそれぞれ小さな屋根があり、さらにその上に大きな屋根を被せている形状のもの。都合3つの屋根があります。
これは結構珍しい形状らしく、奈良の法隆寺にある国宝・東大門(とうだいもん)が同じ様式だと聞くと、へぇ~凄いですねぇ、と感心。門は県の文化財に指定されています。
真っ赤な仁王像はなかなかの迫力ですよ。
江戸時代中期に造像されたもので、約3.6mある像の高さは県内でも最大級の大きさを誇るとのこと。
仁王像の方は吉見町指定文化財です。
ところで、平成10年(1998年)に像の大修理をおこなった際、像内部から造像時の寄付者の名前や出身地が書かれた11枚の板が発見されたそうだ。
そこには関東地方のみならず、山梨県や長野県、さらには遠く東北地方の寄付者の名前もあったことから、当時の霊場としての盛況振りが伺えたとのことです。
ここは奈良か京都か!?大仏・本堂・三重塔が並ぶ境内
仁王門をくぐると境内の全景が見えてきました。
中央に大きな大仏様がおり高台には三重塔がそびえるって、ここは奈良か?京都か?っていうと言い過ぎではありますが(苦笑)、とても立派な境内ですね。正直少し驚きました。
江戸時代の築造物が残る境内は、古刹の風格を感じさせますね。
安楽寺の創建は奈良時代にさかのぼり、行基が観世音菩薩の像を彫ってこの地の岩窟に納めたのが起源だといわれます。
さらにはその後に、この地を訪れた坂上田村麻呂が吉見の総鎮守に定めたとも伝わります。
行基(668~749年)
奈良時代の僧で、民衆教化と社会事業に尽力した人物。民間で布教活動を行い、橋や池、道路などの土木事業を指導し、庶民から広く信頼を得ました。
朝廷からは当初弾圧を受けましたが、後に聖武天皇に重用され、大僧正に任じられました。
東大寺大仏造立にも尽力し、日本仏教における社会事業の先駆者とされます。
源頼朝の弟・源範頼が身を隠した寺院
そして平安時代末期の安楽寺には、源頼朝の異母弟である源範頼(のりより)が暮らしていたと伝わります。
頼朝と範頼の父・源義朝が平治元年(1160年)の平治の乱で平清盛に討たれたため、範頼は源氏を支援する比企氏の庇護のもと、この安楽寺に身を潜めていたといわれています。
頼朝が鎌倉幕府を開いた後も、範頼はここから1km程離れた、現在は息障院がある地に館を構えました。
安楽寺や息障院の住所である「御所」の名は、館があった当時の名残だとされます。
範頼は世話になった安楽寺に所領の半ばを寄進し、そこに二十五間(約45m)四面の大本堂と、高さ十六丈(約59m)の三重塔を建立したといいます。一辺45mっていうと、なかなかの大きさの本堂ですね。
源範頼(1149 ?-1193 ?)
源頼朝の異母弟で源氏の有力武将。遠江国蒲御厨(かばのみくりや)(現・静岡県浜松市)で生まれ育ったため、蒲冠者(かばのかじゃ)・蒲殿(かばどの)とも呼ばれる。
平安末期、源頼朝のもと平氏追討の際に活躍し、治承・寿永の乱では木曽義仲討伐や一ノ谷の戦い、平氏追撃に功を挙げた。特に屋島・壇ノ浦の戦いで奮戦し、源氏の勝利に大きく貢献した。
温厚で律儀な人物と伝えられますが、頼朝の猜疑心を買い謀反の疑いをかけられ伊豆修禅寺に幽閉。そののちに誅殺されたといわれます。
\ 源範頼の館跡に建つ息障院についての記事はこちら!/
本堂の大黒天
鎌倉時代当時の建物は、戦国時代に近隣の武蔵松山城の戦火を受けたため残念ながら焼失しています。
現在の本堂は江戸時代のもので、寛文元年(1661年)に秀慶(しゅうけい)という僧により再建されています。
5間堂の平面形態を持つ、密教本堂として典型的な様式の建築物です。
御本尊である聖観音菩薩が安置されている本堂ですが、堂内各所には様々な装飾が施されています。
大黒像の左背後の欄間に、虎の彫刻があるのが分かりますかね?
これは「野荒しの虎」と呼ばれており、日光東照宮の「眠り猫」の作者として知られる左甚五郎(ひだりじんごろう)作と伝わるものです。
「野荒しの虎」の伝承
その昔、夜毎に虎が出て家畜や田畑を荒しまわり、村人を困らせたという。
ある夜、虎は村人に槍で後ろ脚を突かれ逃げていった。
村人が血の跡を辿ってゆくと、なんと血は安楽寺本堂の欄間まで続いており、彫刻の虎の後ろ脚には沢山の血が付いていたといいます。
怖っ!左甚五郎作の彫刻はその見事なできばえ故に、彫刻に魂が宿ってしまい動物が抜け出してしまう、という話は各地で良く聞く逸話だったりします。
「三重塔」県内最古の寛永期の三重塔
安楽寺にある最も古い建造物は、寛永期(1624~1644年)に杲鏡法印(こうきょうほういん)という僧によって再建された、こちらの「三重塔」です。
約350年以上昔の建築物が残っているのは大変貴重ですよね。
方三間の造り(一面に柱の間の壁が3ヶ所)で、建物全体の高さは24.3m(相輪含む)のもの。
塔の最下部には、高さ約2.2mの誕生釈迦像が安置されているとのことです。
木組みで造られている部分が美しいです。
ちなみに埼玉県内で江戸時代の三重塔が残っているのは、川口市の西福寺、行田市の成就院(じょうじゅいん)、そしてこの安楽寺の三か所だけ。
その中でも安楽寺の塔は県内最古の三重塔となります。
こんな立派な塔がある寺院であることは、県内でも案外知られてないんじゃないかなあ。
「阿弥陀如来坐像」吉見大仏の名で親しまれる
境内の中央に鎮座する銅製の阿弥陀如来坐像は、寛政2年(1790年)の鋳造と伝わります。
高さ約3mで、なかなかの風格を感じさせるこちらの像は、「吉見の大仏」と呼ばれて昔より親しまれています。
「八起地蔵尊」昭和に建立された地蔵尊
本堂の裏手は周回できるようになっているので、本堂脇から上がってみます。
「八起地蔵尊」があるようですね。
緑に包まれた高台には鐘楼がありました。
この辺では、寺院の背後に丘陵地帯が迫っている地形がわかります。
八起地蔵尊は昭和60年に建立された、比較的新しい地蔵尊でした。
七難を克服し七福を授かることを祈願して創建されたとのことです。
おそらく歴代住職のお墓と思われる、古そうな五輪塔が並ぶ一角がありました。
薬師堂ほか
こちらは境内にある薬師如来を祀る仏堂「薬師堂」。
昭和47年(1972年)に三笠宮殿下がお手植した松の碑が残りますが。。。、松自体は残念ながら枯れてしまったとのこと。
六地蔵堂。
三谷幸喜脚本の鎌倉幕府を中心とした、権力争いをテーマにした大河ドラマ。
ドロドロとした駆け引き渦巻く人間ドラマを描いた快作!
岩殿山安楽寺(吉見観音)の詳細情報・アクセス
岩殿山安楽寺(吉見観音)
公式ページ
住所:埼玉県比企郡吉見町御所374(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・東武東上線「東松山駅」よりタクシー10分
・東武東上線「東松山駅」(東口)より、川越観光バスの鴻巣免許センター線乗車約12分、「久保田」バス停下車、徒歩約30分
・東武東上線「鴻巣駅」(西口)より、川越観光バスの鴻巣免許センター線乗車約13分、「久保田」バス停下車、徒歩約30分
・川越観光自働車のページにて路線バスの時刻表が見れます。
車)
・関越道「東松山IC」より20分 ※駐車場 約100台
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周辺おすすめスポット(息障院光明寺ほか)
~近隣スポット~
岩殿山 息障院光明寺
源範頼が館を築き住んでいた場所と伝り、館の名残りとされる空堀が今も残る。
場所も近く、立ち寄ってみたいスポットの一つです。
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吉見百穴
住所:埼玉県比企郡吉見町大字北吉見324(GoogleMapで開く)
※バスによる移動:「久保田」(息障院最寄りバス停)から、最寄りの「百穴入口」までの乗車時間は約7分
岩室観音堂
吉見百穴の向かいにある観音堂。
懸造りと呼ばれる建築物で、崖にもたせかけて造られたその様相にはビックリ!
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名代 四方吉うどん
息障院から約1.2kmの近隣にある、人気のうどんや「四方吉(よもきち)」。
太くコシが強い麺を、アツアツのつけ汁で頂くのが武蔵野うどんスタイル。
道の駅 いちごの里よしみ
農産物の直販所や、お土産屋などがある。
名産の吉見産の苺を使った加工品もあります。
道の駅 いちごの里よしみ
公式ページ
住所:埼玉県比企郡吉見町大字久保田1737番地(GoogleMapで開く)
・※バスによる移動:「久保田」(息障院最寄りバス停)から、最寄りの「よしみの里」までの乗車時間は約5分
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吉見観音へでかけてみませんか?
吉見観音 安楽寺はそれ程知名度が高くない気もしますが、江戸時代の三重塔や本堂など、貴重な文化財が残っているのでもっと注目されても良い気がします。
また、源範頼ゆかりの寺院ということで、鎌倉時代の歴史ロマンにも出会うことができるスポットでした。
そんな、歴史を感じられる吉見観音 安楽寺に出かけてみませんか?
記事の訪問日:2021/5/9

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