「武蔵松山城跡」小田原北条氏の戦国の城、堀切・空堀が残る【埼玉・吉見町】

埼玉県吉見町にある武蔵松山城跡は、自然の地形を生かした戦国時代の平山城の跡です。

北武蔵の要衝に位置していたため、扇谷上杉氏・小田原北条氏・甲斐武田氏・越後上杉などの争いが絶えず起こった城です。

武蔵松山城跡には、曲輪や空堀・切岸などの遺構が良く残っており、城の防御を体感できます。
そんな、武蔵松山城の見どころや歴史について紹介します。

目次

『比企城館跡群と武蔵松山城』

「比企城館跡群について」 松山城・菅谷館・杉山城・小倉城

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡
松山城跡 遠景

松山城跡(武蔵松山城)は、埼玉県のほぼ中央に位置する吉見町にあります。
吉見町を含む周辺のエリアは比企(ひき)地域と呼ばれ、丘陵地を有する地形が特徴です。

戦国時代の関東はというと、公方(くぼう)足利氏・山内上杉氏(やまのうちうえすぎし)・扇谷上杉氏(おうぎがやつうえすぎし)らによる争乱が激化・長期化していました。

その3つの勢力が交差する比企地域は特に城が多かったエリアで、69ヶ所もの城館跡が確認されています。

その中の代表的な4城館、松山城跡(吉見町)・菅谷館跡(嵐山町)・杉山城跡(嵐山町)・小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)が国指定史跡になっています。
これらは合わせて「比企城館跡群」と呼ばれています。

*本記事内では四国の松山城と区別させる為に、一部「武蔵松山城」という呼称を使っています。

「松山城の立地と縄張」 梯郭式の平山城

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡
天然の堀となった市野川

松山城は周囲にある荒川の支流・市野川(いちのかわ)を天然の堀に見立て、丘陵地帯のヘリに立地する平山城です。
市野川は下流で荒川本流に合流するので、河川を使った交通や物流にも適した要衝でもあります。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡
本曲輪にある縄張図

城郭は西から東に向かい本曲輪・ニノ曲輪・三ノ曲輪・曲輪4が一直線上に並ぶ、梯郭式(ていかくしき)の縄張です。

それらの主要な曲輪を取り囲むように、笹曲輪・太鼓曲輪・兵糧倉跡などと呼ばれる腰曲輪が配置されています。

『武蔵松山城跡を歩く』 市野川が天然要害

本曲輪裏手から入城

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

松山城跡の史跡面積52,283m2で、東京ドームの外周面積より少し大きいくらいの広さですかね。

史跡全体はこんもりとした小山になっており、こちらが正面入口。
縄張図記載の看板があり、入口の階段も整備されています。

周囲各所にも出入りがあります。
ちなみに専用の駐車場はないので、徒歩圏内の近隣史跡・吉見百穴の無料駐車場に入れることになると思います。

では入城してみます!

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

最初の登り口は階段があり整備されてましたが、あれっ?って感じですぐに剥き出しの山道に変わります(苦笑)。
歩きやすい靴で来た方が良さそうですよ。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

自然の山道は山城歩きの醍醐味ではありますが。。。、根っ子が張ってる辺りは少し整備されると歩きやすいですね。
気を付けて登りましょう。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

整備され過ぎていないという点では、山城らしさを味わえます。

「本曲輪」 小田原北条氏支配下が長かった城

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

傾斜を登り切ると石の階段が見えてきます。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

階段を登ると視界が開け、広々とした「本曲輪」に到着。
あっけなく城の中心部に攻め込んでしまいました(苦笑)。

本曲輪は東西45m、南北45mほどの広さです。
当時の本曲輪裏手は市野川が自然の要害となってたので、今入って来た入口は見学者用に後から造られた入口ですね。

徐々に攻め込んで行く感を味わいたければ、北東の大手口があった方から入ってくると良さそうです。
次回はそうしてみようっと!

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

松山城跡の説明があります。
情報量が多いので、パンフレットが置いてあるとありがたいのですが。。。

  • 松山城関連の主な出来事
  • 築城時期は鎌倉時代か、室町時代の応永年間頃といわれますが詳細不明。
  • 15世紀半ば:戦国時代前期に扇谷上杉氏により城郭の体裁が整えられたとされる。
  • 天文6年(1537年):北条氏綱が江戸城・川越城を落とし、扇谷上杉氏の松山城を攻めた。
  • *天文年間~永禄年間(1532~1570年)は城を巡り扇谷・山内両上杉氏、小田原北条氏、甲斐武田氏、越後上杉氏などの争いがおきる。
  • 永禄6年(1563年):北条氏康・武田信玄の連合軍により松山城開城。
    小田原北条氏の支配下になり上田氏が城主となる。
  • 天正18年(1590年):豊臣秀吉の小田原征伐の際、前田利家・上杉景勝などの軍勢に攻め落とされる。
  • 徳川家康が関東に入り、松平家広を松山城主とした。
    後、慶長6年(1601年)に廃城となった。

北武蔵地域の要衝だったため、城をめぐり多くの合戦が起こりました。
なかでも小田原北条氏勢力下の上田氏が支配した期間が長かった城です。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

主要箇所にはこのような、見やすい縄張図入りの標柱があります。
各曲輪を探す目安になり、現在位置の確認もできて良いです。

発掘状況ですが、本曲輪と惣曲輪(搦め手側の曲輪)で発掘調査がおこなわれています。
調査により柱穴や溝のあとが確認され、本曲輪では2回の造成と2面の生活面が確認されました。

それぞれの造成土には熱を受けた陶器や焼土が含まれて、戦闘による火災と復旧作業があった痕跡が見られます。
また、15世紀後半から16世紀中頃の遺物が出土されています。


埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

周囲に木々が茂っている為、眺望はほとんど望めません。
木々が無ければそこそこ遠方まで望めそうですが、当時はもっと見晴らしが良かったのかな。

「ニノ曲輪」 本曲輪間の最大の空堀

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

では本曲輪を出てニノ曲輪方面へ向かってみます。
城内は山歩き的な雰囲気が楽しめますよ。

右手はニノ曲輪に続く道ですが、左手はおそらく本曲輪とニノ曲輪を隔てる深い空堀の底の方だと思われる。
草が茂っていてちょっと状況が分かり辛い。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

平坦で開けた「ニノ曲輪」に出ました。
この曲輪の最大幅は東西60m・南北65mほどで、本曲輪より1mほど低い位置に築かれています。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

左手の木々が茂っている部分が、本曲輪と二ノ曲輪の間の空堀側。
曲輪は空堀を包み込むように、北側に縦長な形状になっています。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

空堀の深さがが少しわかりやすい、ニノ曲輪側のヘリの位置へ。
堀っていうか、谷って感じに見えるな。

高低差は最大9mで、松山城で最も深い空堀になります。

「三ノ曲輪」 土橋で空堀を抜ける

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

ニノ曲輪から三ノ曲輪へ進みます。
曲輪間にはやはり空堀があり、通路となる土橋が残ります。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

ニノ曲輪と三ノ曲輪の間の堀切。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

「三ノ曲輪」は開けており、比較的曲輪の形状が分かりやすいです。
東西18m・南北60mほどの細長い形状の曲輪でした。

「曲輪4」 小田原北条氏時代の堀切!?

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡
三ノ曲輪から曲輪4へ下る道

本曲輪が一番高い頂上地点にあり、尾根側の外郭に移るにつれ低地に向かって行きます。
なかでも曲輪4は、ひと際下がった山裾に近い場所になる。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

左側が三ノ曲輪側で、こちらは曲輪4の手前の堀切の底にいます。
敵は右手の曲輪4側から攻めてきますが、ここを登って侵攻するのはかなり困難ですね。

この堀切は本曲輪・二ノ曲輪周囲の空堀と比べて見やすく、堀切ウォークもできますからね。
松山城跡の一番の見どころだと思います。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

堀切の谷部分は、ジグザグに折れ曲がった形状で見通しが悪い。
この先には城郭裏手の搦手口があるが、死角が多く侵入者に対し防備しやすい造りになっている。

これらの形状から、一説によると本曲輪から三ノ曲輪が扇谷上杉氏時代のもの。
そして、この辺りの堀切や曲輪4などは小田原北条氏時代に構築された部分ではないか?ともいわれます。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

「曲輪4」と呼ばれる平坦地。
城郭の正面入口にあたる大手口に面しているので、最初の防御ポイントとして重要な曲輪だったと考えられます。

「兵糧倉」 本曲輪北側の防御

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

本曲輪方面の戻りますが、本曲輪北側を下ったところにある「兵糧倉」。
主要の曲輪周囲には大小の曲輪があるが、ここもその一つ。

本曲輪を防御する曲輪と考えられます。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

東西20m・南北45mほどの規模とありますが。。。、草木に覆われており全貌が分かり辛いですねえ。

「搦手門」 岩室観音堂の裏手に

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

松山城跡の北側に、「岩室観音堂」という松山城と繋がりの深い寺院があります。
その奥が松山城の搦手門跡だといわれているので、岩室観音堂側からアプローチしてみました。

ちょっとインディ・ジョーンズな感じですが。。。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

城郭がある山への入口はこんな感じ。
この辺が搦手門があった辺りではないか、と思われます。

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡

振り返るとこんな感じ。
いかにも裏口って雰囲気はありますなあ。

この崖の上は曲輪4の切岸からも周ってこれので、こからの入城はオススメしません。
足場が悪いので。。。

 岩室観音堂の詳細はこちらへ!

アクセスと城カードについて

埼玉県吉見町 武蔵松山城跡
吉見百穴の無料駐車場が利用可
松山城跡
住所:埼玉県比企郡吉見町北吉見298(GoogleMapで開く
アクセス:
電車)
・東武東上線「東松山駅」下車、川越観光バス「免許センター行」約5分、「百穴入口」下車徒歩約5分
・JR高崎線「鴻巣駅」下車、川越観光バス「東松山駅行」約25分、「百穴入口」下車徒歩約5分
車)
・関越自動車道「東松山IC」から鴻巣方面へ約5km
・圏央道「川島IC」から東松山方面へ約8km
・国道17号より鴻巣天神2丁目交差点から東松山方面へ約10km
埼玉県吉見町 松山城跡 城カード

松山城跡の城カードが無料配布されています。
裏面には城の概要紹介も記載されているので、記念に頂きましょう。

(配布場所)
配布場所:吉見百穴入口
住所:埼玉県比企郡吉見町北吉見324(GoogleMapで開く
配布時間:8:30~17:00
休館日:無し

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感想(2件)

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武蔵松山城へでかけてみませんか?

松山城跡の散策を紹介しましたが、いかがでしたか?

松山城跡を歩いて感じたのは、平坦な曲輪部分の敷地が少なく、空堀などの割合が大変多かったこと。
少ない兵で大軍に対抗するための、戦術の一つだったのかもしれませんね。

中世の山城には石垣や天守などはありませんが、縄張りを歩きながら城跡を体感する面白さがあります。
草が枯れる、秋から冬の季節が歩きやすいです。
夏場歩く時は虫よけの持参を!

松山城跡を歩きにでかけませんか?

*参考資料について:史跡内の解説板等の他に、県立嵐山史跡の博物館が発行している「戦国の比企・境目の城」という冊子を参考にしています。


サステナブルにお得な買い物ができるって、いいんじゃない。

【記事の訪問日:2021/11/3】

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