
茨城県水戸市にある「水戸城跡」は、江戸時代に水戸徳川家の居城だった城郭跡です。
自然の要害に囲まれた台地に縄張りされた城郭で、現在もその地形を活かした大堀切が残っており圧倒されます。
また、令和に入って巨大な大手門と二の丸角櫓が復元され、見どころも増えました。
日本100名城の一つにも数えられる水戸城の跡を、その歴史を振り返りながら巡ります。
水戸徳川家の居城「水戸城」の歴史

最初に水戸城の概略紹介です。
水戸城は、平安時代末に大掾(だいじょう)氏が館を構えたのに始まります。
その後も拡張されつつ城郭として使用され、江戸氏、佐竹氏の支配の時代を経て、江戸時代には水戸徳川家の居城となりました。
水戸城は平山城で、馬の背のような台地に縄張りされ、北の那珂川(なかがわ)、南の千波湖を自然の水堀に見立てた立地です。
東西約1,200m、南北最大約400mの面積を有します。
連郭式の縄張りで、台地東側最高所に本丸を築き、西側に二の丸・三の丸が配置されています。
また、城下町内では、町を城の一部とする総構えの構造も見られます。
- [水戸城概略年表]
- 大掾(だいじょう)氏時代(12世紀末~13世紀初め頃)
- 馬場資幹(すけもと)(大掾資幹)が本丸部分に居館を築く。
- 大掾氏は9代約200年に渡り水戸地域を支配。
- 江戸氏時代(1426~1590年)
- 応永33年(1426年)、佐竹氏家臣の江戸通房が水戸城を奪取。
- 7代約160年にわたって水戸地域を支配、水戸城を二の丸まで拡張。
- 佐竹氏時代(1590~1602年)
- 天正18年(1590年)、豊臣秀吉から水戸地域支配を認められた佐竹義宣(よしのぶ)は、 江戸氏が守る水戸城を攻撃し落城。
- 佐竹氏は下の丸・三の丸の二つの曲輪を拡張し、城下町の基礎を作る。
- 水戸徳川家時代
- 慶長7年(1602年)、佐竹義宣は秋田に国替、代わって家康5男・武田信吉、10男・長福丸(後の徳川頼宣)、11男・頼房が相次いで城主となる。
- 徳川頼房を初代とし、水戸徳川家が水戸城城主となり明治まで至る。
- 水戸城下町は大普請が行われ、東西3.5km・南北約1.2kmが総構えとされた。
水戸城は日本100名城の一つに数えられています。
『大手門』 巨大な空堀

大手門広場から入口に向かうと、二の丸入口にあたる大手橋と大手門が見えてきます。立派な門ですね!
この大手門は、令和2年(2020年)2月に完成したばかりの、結構ホットなスポットなんです。
城の正門にあたる大手門は、佐竹氏の時代だった慶長6年(1601年)頃に建てられて以来、何度か建て替えられているそう。
この門は、天保年間(1830年~1844年)の水戸徳川家時代の門の復元になります。
高さ約13m・幅約17mの巨大な櫓門です。

復元に先立ち、市では5年を掛けての学術的調査・検討がおこなわれました。
そして資金充当には、市民参加の「一枚瓦城主」による寄付金を募ったそうです。
市民参加型で完成させた、というのが素敵ですなあ。

門脇には袖塀(そでべい)が復元されてますが、内部には元々の塀が保存されているそう。
実物の一部が、ガラス越しで見学できるようになっています。
瓦と粘土が交互に積み重ねられ、粘土部は漆喰で化粧されています。
実物遺構が見れる工夫がされてるのは良いですね。

こちらは、大手橋から見下ろした景色。
現在は県道が走ってますが、これ、三の丸と二の丸の間の巨大な空堀跡なんですね!
曲輪を分断する深い堀が、防御の要だったことが伝わってきます。
水戸城は近世の大規模な城郭としては、珍しく石垣を用いない土造りなのが特徴。
土造りの平山城としては日本最大級の規模を誇ります。
『二の丸』 二の丸角櫓の復元

門の先は旧二の丸エリアで、路の両脇には綺麗な白壁が続いています。
明治時代になると、廃藩置県により水戸藩が廃藩。
以降、城内の建造物は焼失や解体により失われてゆきました。
戦後になると、このエリアは学校が立ち並ぶ文教地区として再生されます。
そして現在では城施設の復元も進み、歴史的景観のある地域としての整備も進んでいます。
この辺りは地下にも往時の遺構・遺物が保存されているそうですよ。
大手門の瓦塀のように、地下の遺構も見学できる工夫が進むと良いですなあ。
「旧水戸彰考館跡」は二の丸展示館

「旧水戸彰考館跡地」の碑があります。
水戸藩第2代藩主徳川光圀が、我が国の歴史書「大日本史」の編纂所として創設した史局。
全国から学者を集めての編纂は藩の一大事業となり、学問・教育に尽力する水戸藩の伝統の起点となります。
彰考館は当初江戸に置かれましたが、光圀の隠居後の元禄10年(1697年)、ここ水戸城二の丸にも置かれ幕末まで編纂事業が進められました。
*最終的な完成は明治39年(1906年)。

現在跡地には「二の丸展示館」が設置されています。
二の丸展示館では水戸城に関する展示や、日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成の一部である、弘道館や偕楽園などの情報が紹介されています。

これは平成18年(2006年)に、水戸弟2中学校改築に伴う発掘調査で発見された遺物の展示。
水戸徳川家の家紋を配した鬼瓦は、葵紋が立体的ですな。
この地域にはまだまだ多くの遺物が眠っているんでしょうなあ。

二の丸エリアとその先の本丸エリアには、学校施設が入っています。
でもって、これ学校の校門だって。素敵すぎないかい?
こういう環境で学ぶと、絶対歴史に興味を持つ若者に育つだろうなあ。
二の丸北口の「杉山門」

杉山門(復元)は、二の丸北口にあたる門。
当時、門の内側には敵の侵入を遅らせるため、土塁で枡形が形成されていたそうです。

入口の坂も屈折して造られており、城内を見通せない形状でした。
ちなみに当時この周辺は、徳川光圀が紀州産の熊野杉を取り寄せたと伝わる杉林だったそう。

杉山門近くにある、高さ20mの巨木のシイノキ。
戦国時代から自生していたとされ、樹齢約400年と推定されます。
城の歴史を色々見てきた老木なんでしょうな。

二の丸エリアの北側にある「二中見晴らし台」からは、自然の要害だった那珂川の流れが見えます。
これは、初代藩主・徳川頼房による、寛永の水戸城大整備(1625~1638年)にあわせて建設されたものです。
およそ50数間(約91m)四方の平屋建てで、城内最大の建造物でした。
「二の丸角櫓」 礎石の実物展示も

復元された「二の丸角櫓」を見に行きます。
こんな感じで、学校施設間をすり抜けるように道が設けられています。
通路の入口には、現在は残っていない「水戸城三階櫓」の説明板がありました。
外観は三重、内部は五階建ての美しい建造物といわれます。
明治時代の解体を逃れましたが、昭和20年(1945年)年の空襲で焼失しています。

二の丸の南側にあるこちらが、復元された「二の丸角櫓」です。
2階建の角櫓本体と、それに接続される2つの多聞櫓(北多聞櫓・東多聞櫓)により構成されます。
全体はL字の形状です。
こちらも令和3年6月に公開された、新しい施設なんですね~。

屋根にはシャチホコが載っていてカッコ良い。
城内にはかつて4基の角櫓があったそう。
城下町のある南側に集中して設けられていたことから、城下からの視線を意識して配置されていたようです。
威厳の象徴、だったんですね。

角櫓の跡から発見された、当時の礎石の実物。
花崗岩製で、河原などに転がる丸ぽい石が利用されたと見られます。
柱を乗せやすいよう、平らに成形されているのが分かる。

櫓内部にも入れ、中はミニ博物館という感じでした。
水戸城に関する映像や資料の展示紹介がされています。

こちらは「伝大手門門扉」。
この寄贈がきっかけで近年の水戸城復元の機運が高まった、記念碑的な資料だそうです。
大手門の門扉としてはサイズ的に小さいことから、城内いずれかの門扉だったと考えられます。
しかし、良く残っていましたね!
『本丸エリア』 現存の薬医門
本丸・二の丸間の「大堀切」

二の丸から本城橋を渡り、本丸エリアへ移動。

本城橋から見下ろすと。。。
おお~、鉄道の線路が通る形で、こちらも見事な大堀切が残っています!
インフラ施設に利用される形で見事に残る遺構が、水戸城跡の最大の見どころだと思います。
現存遺構の「薬医門」

「本丸」とその東側の「下の丸」だった場所は、現在は水戸第一高校の敷地になっています。
入口脇や駐車場を囲うように、土塁が綺麗に残ってますね!
築城当初から中世にかけては、本丸が城の中心部でした。
その後近世になると政務の場所は二の丸に移ってゆき、本丸の重要性は薄れたそうです。

本丸エリアには、城内に現存するただ一つの建造物「薬医門」があります。
安土桃山時代末期の佐竹氏の時代に創建され、徳川氏に引き継がれたものと考えられています。
風格がある門ですよね!
ちなみに薬医門というのは、門柱の形式による門の種類の呼び名です。

両脇には脇扉が付いています。
屋根は修復時に茅葺から銅板葺に変更されています。
元々の城門の位置は、本丸の表門にあたる橋詰御門だったと考えられてるそうです。
『水戸学の道散策』 二の丸周辺
「徳川頼房公像」と柵町坂下門

二の丸・本丸を巡ったので、「水戸学の道」と称された散策路に沿って、城郭周囲を歩いてみます。
水戸駅方面に向かい、二の丸南側の坂を下る。
坂の途中では、水戸藩初代藩主にして水戸徳川家の祖となった、徳川頼房の像に出会います。

さらに下ると、復元された高麗門「柵町坂下門」があります。
ここは二の丸の南口にあたります。
ここから入城すると、坂上には二の丸入口にあたる柵町門があったそうだ。

坂を下り切ると国道に出る。
二の丸がある台地南側のヘリにあたる場所で、城郭がかなり高台にあったことを実感。
「水戸黄門光圀(義公)」生誕の地

国道沿いで水戸駅にも程近い場所に、「水戸黄門光圀(義公)の生誕の地」がありました。
寛永5年(1628年)、徳川光圀はここにあった家臣・三木仁兵衛之次の屋敷で生まれます。
その後、4歳まで三木家の子として養育されました。
水戸徳川家というとすぐに思い浮かぶ、水戸藩の第2代藩主である水戸黄門・光圀ですが、正式な側室ではなかった女性との間の子だったため、誕生時は色々お家事情があったようなんですよ。

現在、屋敷があった地には、水戸黄門神社(義公祠堂)が建てられています。

水戸黄門神社付近から見上げた二の丸角櫓。
江戸時代の城下町からも、こんな風に櫓が見えていたんでしょうね。

アクセス
住所:茨城県水戸市三の丸2-9-22(GoogleMapで開く)*住所は二の丸展示館所在地
アクセス:
電車)
・JR常磐線「水戸駅」北口から徒歩約10分
車)
・常磐自動車道「水戸IC」から約30分
・北関東自動車道「水戸南IC」から約15分
水戸城跡へ出かけてみませんか?
徳川御三家の一つ、水戸徳川家の居城だった水戸城を紹介しましたが、いかがでしたか?
城跡は復元大手門をはじめ綺麗に整備され、資料館なども備え興味深く巡ることができました。
それと、水戸城の魅力はその周囲をぐるっと回ることができ、歩きながら城郭の立地を体感できるところですね。
そんな水戸城跡の探訪にでかけてみませんか?

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【記事の訪問日:2022/10/9】