戦国時代の関東と信濃・越後を結ぶ要衝である上野(現、群馬県)にあった金山城は、越後上杉氏・甲斐武田氏・相模小田原北条氏などの有力大名からの攻撃を何度も受けながらも、落ちなかった堅固な山城でした。
縄張りがほぼ山全体に展開されている広大な範囲に及ぶ山城で、その最大の特徴は関東の山城では珍しい石垣を多用していることです。
日本100名城の一つにも数えられる、金山城の見どころを紹介します。
目次
「金山城」石垣を多用した山城で堅城振りを体感
「史跡金山城跡ガイダンス施設」建物は隈研吾の設計

本日は電車で訪問しましたが、最寄りの東武鉄道・太田駅から城跡までの公共交通機関が残念ながらないんですね。
タクシー一択かあ、と思っていたところで、駅の観光案内所に電動アシスト自転車のレンタルがあるのを発見!
城跡までの距離は3km程度だったので、これをレンタルして金山城攻めに向かいました。
結果的にこの選択は失敗で(苦笑)、城跡手前にある急斜面の洗礼を受けて苦戦。山城を舐めていましたね。
汗だくの末に到着したのが、こちらの「史跡金山城跡ガイダンス施設」。
随分スタイリッシュな建物だなと思ったら、なんと建物の設計者は隈研吾氏なんですって。なかなかやりますね、太田市。
外観デザインは、金山城の石垣のイメージをモチーフにしたとか。
ガイダンス施設では資料展示や動画解説により、金山城の概要が分かりやすく解説されていました。
ちなみに展示物の撮影はNGでした。
金山城跡ガイダンス施設
開館時間:9~17時(入館は16:30まで)
休館日:月曜日(休日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
入館料:無料
*日本100名城スタンプは設置されていません。スタンプは南曲輪休憩所にあります。

こちらはガイダンス施設からは、徒歩で約15分程上がった場所にあるモータープール(駐車場)。
この近くに見学ルートのスタート地点があります。車だと約5分程ですね。
西城と呼ばれるこのエリアには、小田原北条氏時代に築かれた土塁などが良く残っています。
金山城は由良氏が上杉・武田・北条らと渡り合った堅城

北東に歩いて行くと、史跡金山城の石碑と地図入りの案内板のある散策ルート入口が現れます。
散策前に金山城の歴史概略を振り返ってみましょう。
金山城の概略年表
■文明元年(1469年):岩松家純が金山城築城。
■享禄年間(1528~1532年):下剋上により家老であった横瀬氏(後の由良氏)が城主となる。
■永禄8年(1565年):小田原北条氏に攻められたが、由良成繁が撃退。
■天正2年(1574年):上杉謙信に攻められたが、由良国繁が撃退。
■天正12年(1584年):金山城が小田原北条氏の支配下となる。
■天正18年(1590年):豊臣秀吉の小田原征伐により金山城開城。その後、金山城は廃城となる。
戦国時代、関東と信濃・越後を結ぶ要衝であった上野(現、群馬県)では、領地をめぐり越後上杉氏・甲斐武田氏・相模小田原北条氏などの有力大名の抗争が多発しました。
その中で金山城は10数回の攻撃を受けましたが、一度も城の中枢部には攻め込まれず、その堅牢さを誇った城でした。
現在は国史跡に指定されているほか、日本100名城の一城にも数えられています。
岩松家純と金山城の築城
新田一族であった岩松家純は古河公方・足利成氏に対抗するため、新田氏ゆかりの金山に金山城を築城しました。
関東を二分した享徳の乱では古河公方側から上杉方へと陣営を変えるなど、混乱に乗じて新田荘の支配権を確立するなどの処世術を見せます。
しかし重用していた筆頭家老である横瀬氏(後の由良氏)に、次第に実権を奪われてゆきました。
石垣が多用された東日本では希少な山城

金山城の縄張り
金山城は標高約236mの金山山頂に置かれた実城(みじょう)(本丸)を中心に築かれた、連郭式の山城です。
北・南・西の3方の尾根部を中心に曲輪や土塁が配置され、要所は大小の堀切により分断されています。
約360haの面積を持つ金山において、約8割のエリアに防御施設があったといいます。山全体がほぼ城、という感じですね!
その金山城の最大の特徴は、石垣が多用されていたこと。
一般的に東日本の戦国時代の山城に石垣はない、といわれているので希少な城といえます。
西城から実城まで続く散策道の距離は片道約700mで、往復時間の概算は約60~90分です。
「西矢倉台西堀切」城兵が通路としても利用

ルートに入ると山道っぽい道が続きますが、整備されているので歩きやすいですよ。
ちなみに右手には旧道跡も残っていますが、こちらは獣道みたいな感じ。

しばらく進むと、木橋が架かる「西矢倉台西堀切」に出ます。
これは西城から実城の間では、最も西寄りにある堀切です。

西矢倉台西堀切
堀切は尾根を断ち切って敵の進行を妨げるための障害ですが、城内では通路として使われる一面もあります。
この堀切も敷石の跡が残るなど、通路として活用された痕跡がありました。

堀切が突き当たった先の山の斜面には、丸太を架けた桟道(かけはしみち)があったとのこと。
敵に発見された際には丸太を外すことができる、簡易的な造りだったようだ。
桟道は城の中心部にも通じる裏道でした。
「物見台下虎口」竪堀や堀切もある鉄壁の守り

物見台下虎口
再び山道を進むと今度は開けた場所が現れ、その先には堅牢な石垣を備えた「物見台下虎口」がありました。
ここは重要な防御ラインだったことを感じさせる場所で、様々な守りの工夫が見られます。

虎口の先の道は屈折しており、城内を見通すことができない造り。当時はさらに門と櫓で入口は閉ざされていました。

物見台下堀切
左手にあったのは、岩場を人工的に掘削した堀切。この硬そうな岩場を良く削ったなあ。。。
ここを削って発生した石も、石垣の石材に利用されたのでしょうね。
ちなみにこの岩場の上の高台には、物見台が設置された曲輪があります。

虎口を抜けると竪堀があり、そこを越えることができる唯一の通路がこの木橋。
大軍が一気に通り抜けることができない通路幅です。
さらに丸太をゴロっと転がせば、橋自体も容易に外れそうなのが見て取れますね。

橋の下にある竪堀は谷底まで続いています。
先方から攻撃されたら、後退するかこの谷底に落とされるかの二択に迫られそうだ。

木橋を抜けると「馬場下通路」と呼ばれる通路に入ります。
入ってすぐの左手に実城に向かう登り口がありますが、当時は手前に建物が配され入口は死角にありました。その建物の礎石が発見されています。
登り口を見逃して直進してしまうと、その先は行き止まりという罠。
敵を狭い空間に押し込め、右往左往させるための工夫が施されていた様ですよ。
「物見台」眺望が良く赤城山も望める

馬場下通路から上部へ抜けると、物見台跡がある長細い曲輪に出ます。
こちらでは4本の柱穴が発見されており、周囲からは火縄銃の弾丸なども出土されているとのこと。
金山城は広大で死角も多かったため、実城との中間地点に物見台が設置されたようだ。
現在は見学者向けの見晴らし台が設置されています。

見晴らし台から見下ろすと、なんと先程通って来た虎口が丸見えじゃないですか!これじゃあ、上から狙い撃ちですねえ。
この曲輪は通路を見下ろす形で、並行して横長に続いています。

視界が開けた北側からは、なかなかの良い眺望が望めますよ。遠方の中央に見えるのは赤城山。
大堀切と石積みの人工池・月ノ池

馬場曲輪
物見台のある曲輪の東側にある「馬場曲輪」では、240個以上もの柱穴が発見されており、建物や柵列があったことが分かっています。
大手虎口に近い場所なので、多くの兵が控えてた曲輪なのでしょうね。

大堀切
馬場曲輪の先には大手虎口がありますが、その間には「大堀切」があります。
長さ約46m・掘り幅約15m・深さ約15mの大規模な堀切ですが、深さは大分埋まって(埋められて?)浅くなっているようですね。

大堀切
興味深かったのが、堀底にある長さ約7m・高さ約1.5m・幅約1.8mの石積みによる畝状の障害。
小田原北条氏の代名詞である障子堀を思い起こしますが、いつの時代の物なんですかね?

大手虎口の手前には「月の池」と呼ばれる、石積みによる円形の池がありました。
斜面から流れてきた水や浸透水を溜め、飲料水や生活用水を確保するのが目的だったようだ。
「大手虎口」石垣土塁の堅牢な防御に圧倒!

そして金山城の象徴であり、最大の見どころでもある「大手虎口」に到着です。
石垣で固められた、実にいかつい虎口ですね!当時はここに櫓門が架かっていたとされます。
こちらも大軍では攻めづらそうな、極端に間口が狭い形状が特徴的です。

通路に入ると、両側の石垣積み土塁上から横矢がビュンビュン飛んでくる様子が目に浮かんできますね。
正面の先にもひな壇状の石垣土塁があるので、そこでも城兵が待ち構えていたことでしょう。
通路は右にカーブしつつ、ずっと先まで続いているようにも見えます。
しかし、よく見ると進むにつれ間口が狭くなっており、遠近法で実際以上に通路を長く感じさせる造りなんですよね。なかなかの技アリという感じです。
通路両側には排水路があり、水捌けへの配慮もされていました。

虎口北側には城兵が移動できる、いわゆる「武者走り」があります。
北側には三ノ曲輪・二ノ曲・実城などの主郭が控えているので、緊急時には大量の兵を張れるような造りだったようですね。

この石階段は発見した当時の形状を残しているとのこと。
若干不揃いですが、結構しっかりした造りに見受けられます。
建物があった南上段曲輪と日ノ池

こちらは虎口南側の全景。

井戸や建物の基礎が発見されているのが、南側上段の「南上段曲輪」。
建物は武器庫兼詰め所だったと考えられており、当時をイメージした建物が建っています。
カマド跡が見つかっているなど、生活感が感じられる曲輪だったようです。

そして大手虎口裏手には人工的な池「日の池」がありました。大手口近辺にこんな大池があるのも、なんだか不思議な感じ。
ここは戦勝や雨乞の祈願をおこなう場所としても使用された、と考えられています。
豊臣秀吉の小田原征伐にて開城

南曲輪にある日本百名城・金山城碑
金山城の最期について。
小田原征伐と金山城
天正18年(1590年)、豊臣秀吉は小田原北条氏を攻める小田原征伐をおこないます。
すると北条氏配下だった金山城にも、前田利家が率いる秀吉軍の大軍勢が迫りました。
当時城主だった由良国繁は小田原城に居たため、城を守っていたのは70代の母・妙印尼(みょういんに)でした。
妙印尼は圧倒的な戦力差と時勢を見極め金山城を無血開城し、前田利家がこれを接収しました。
小田原征伐後、由良氏は常陸国牛久へ移封となり金山城は廃城となります。
「南曲輪」休憩所には100名城スタンプも設置

南曲輪に休憩所があり、自動販売機やトイレも設置されていました。日本100名城スタンプもこちらにありますよ。
ようやくここで一息です、ふう。
南曲輪休憩所
開場:8:30~17:00(6月~9月は18:00まで)
休日:年中無休(夜間は施錠)
「実城(本丸)」金山山頂が城の中心部

南曲輪から更に一段高いエリアを進むと、石段が現れます。

石段を上がった所が金山の山頂で、実城(本丸)が置かれていた場所となります。
現在は明治時代に建てられた金山神社が鎮座しています。
「天守曲輪裏馬場」実城裏手にある残存石垣

実城の西側には二の丸跡がありますが、二の丸・三の丸は私有地なので中には入れませんでした。
実城との間の堀切が綺麗に残っていたのは確認できましたよ。

本丸の裏手には、馬小屋があったいう「天守曲輪裏馬場」があります。

その天守曲輪裏馬場には、当時の状態のままの石垣が残存しています。
石垣用材には金山石と呼ばれる、金山で採れる火山砕屑岩が使われているとのこと。
柱状に発達する特徴の石を、小さい面を外側にして長手が奥に埋まっているそうだ。
これはゴボウ積みなどとも呼ばれているそうですよ。
大手虎口などで見た石材とは種類が違うようにも見えますね。
関東周辺の山城攻めをトレッキング視点でまとめた、ありそうでなかったタイプの城攻め本。
これから山城歩きをする人は、東京都にもタフな山城があったりするのには超驚くと思いますよ!
明治時代の初めにはまだこれだけ様々な城が残されていたんですね。
貴重な写真の数々に思わず釘付け!
金山城跡の詳細情報・アクセス
金山城跡
公式ページ
住所:群馬県太田市金山町40-106ほか(GoogleMapで開く)
アクセス(ガイダンス施設まで):
電車)
・東武線「太田駅」から徒歩50分、又はタクシー10分
車)
・北関東道「太田桐生IC」から10分 「太田藪塚IC」から30分
・関越道「東松山IC」から60分、「花園IC」から60分
・東北道「館林IC」から45分、「佐野藤岡IC」から50分
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城跡内の散策路は良く整備されており歩きやすく、山城らしい山歩きを堪能できました。
城跡は広範囲で全体をまわるのには結構な時間を要しますので、時間に余裕を持っての訪問をお勧めしたいですね。
ハイキングコースとしても楽しい金山城を歩いてみませんか?
現地の案内板の他に、ガイダンス施設で購入した「新田金山城ガイドブック(群馬県太田市教育委員会発行)」を参考にしました。
記事の訪問日:2022/7/18



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