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栃木県足利市にある「史跡・足利学校」は、現存する日本最古の学校の遺跡です。
日本最古の孔子廟の遺構と復原された施設により、江戸時代の姿が再現されています。
足利学校はかつては宣教師フランシスコ・ザビエルにより、「坂東の大学」として西洋にも伝えられました。
そして戦国時代にも学びの灯を絶やさず、特に徳川家康との非常に強い結びつきもあった。
そんな由緒をたどりながら、史跡を巡って紹介します。
『日本最古の学校・足利学校』
「入徳門・孔子像」 創設時期は諸説あり

「足利学校跡」は、現存する日本最古の学校の遺跡です。
いつ誰が創設したかは諸説あり、明確にはなっていません。
奈良時代の教育機関(国学)の名残である説。平安時代の学者・小野篁(おののたかむら)が創設したという説。
そして、鎌倉時代に足利氏2代目の足利義兼(足利尊氏の祖)が建てたという説など。
敷地は土塁と堀とで囲まれており、館跡のような形状をしています。
この直ぐ近隣に足利義兼が鎌倉時代に開いた鑁阿寺があり、そこも同じような敷地の形状。
現在は足利義兼の創設説が有力とのことですが、造りからもやはり足利氏が関与していると考えるのが自然のような気がしますねえ。
\ 鑁阿寺の紹介記事はこちら! /

入徳門を抜け、入口で参観料を払い入場。
入場券は足利学校の入学証になっているのがユニーク!
裏面は入学記念スタンプが押せるスペースになってますよ。

入学して進むと、中国古代の思想家で儒教の祖である孔子(紀元前552~紀元前479年)の像が現れます。
足利学校では儒学を中心に学ばれました。
「足利学校のシンボル・学校門」 江戸初期の建築

孔子像の先に、学校入口の「学校門」が現れます。
寛文8年(1668年)建築の門の現存で、足利学校のシンボル的な建造物となっています。

門を裏側から見ると特徴的な形状ですね!
足利学校の存在が歴史上で明らかになるのは、室町時代の永享11年(1439年)に関東管領・上杉憲実(のりざね)が学則や庠主(しょうしゅ)(=校長先生)制度を定め、現在国宝になっている書籍等を寄進した頃からです。
鎌倉の円覚寺から僧侶・快元(かいげん)が招かれ、初代の庠主として学校経営にあたりました。
「杏壇門と孔子廟」 孔子廟は日本最古!

「杏壇門(きょうだんもん)」も寛文8年築のもの。
明治時代に屋根と門扉部が焼け、後に再建されています。
杏壇(きょうだん)というのは、孔子が学問を教えた壇のまわりにあった杏(あんず)の木に由来するそうな。

足利学校は戦国時代に入る応仁の乱以後も学問の灯を絶やさず、学徒数3,000名といわれる程までに隆盛。
天文18年(1549年)には、宣教師フランシスコ・ザビエルにより「日本国中最も大にして、最も有名な坂東の大学」と世界に紹介されました。
それでもって、足利学校で学んだ人々の名を見ると。。。
涸轍祖博(こてつそはく)という僧侶は足利学校で学んだ後、上杉家家老・直江兼続(かねつぐ)に招かれています。
また、徳川家康側近として幕政にも関与したことで知られる天海僧正も、永禄3年(1560年)から4年間足利学校に在学していますなあ。
武将に付くいわゆる軍師としての知識を習得する場、そんな需要もあった感じですねぇ。

杏壇門をくぐると現れるのが「孔子廟(こうしびょう)」。
聖廟とも呼ばれる孔子を祀っている建物で、中国明(みん)時代の聖廟を模したと伝わります。
孔子廟は寛文8年、足利学校の第13世庠主・伝英元教の時に造営されたそう。
現存する孔子廟としては日本最古のものだそうですよ!
孔子廟、及び同時期に建築された入徳門・学校門・杏壇門の3門が国指定史跡となっています。

孔子廟の名は大成殿。

大成殿の中央に祀られているのは木造の「孔子坐像」。
像は天文4年(1535年)に製作さたことが胎内銘からわかっており、日本最古の孔子の彫像とのことです。
綺麗な状態で残っているもんですね!
孔子に関する日本最古尽くしのこのエリアは、非常に貴重なものが見られるエリアですなあ。

向かって右手には、足利学校の創始者説もある小野篁(おののたかむら)の像が祀られています。
「方丈・庫裡・書院」 学びの施設の復原

東側には学習の場として使用された建物群があります。
手前が「方丈(ほうじょう)」で、奥の建物が「庫裡(くり)」。庫裡の裏手には「書院」があります。
内部はつながっており、それぞれ行き来できるようになっています。
元々の建物は宝暦4年(1754年)の落雷で焼失しており、現在の建物は平成2年(1990年)に復原された建物です。

方丈は寄棟(よせむね)造りで屋根は藁葺。
禅宗寺院の本堂のような造りになっています。
こちらの建物で学習や講義がおこなわれました。

瓦葺の唐破風が付いている箇所は玄関です。

玄関を挟んだ東側の建物は「庫裡」と呼ばれます。
庫裡には、竃(かまど)のある土間、板敷の台所、畳敷の4部屋があり、奥には湯殿がある日常の生活空間でした。
「衆寮・木小屋・土蔵」

方丈・庫裡・書院の周辺にも、復原された関連建築物があります。
「衆寮」は、僧房・学生寮として使われました。
6畳間に土間がついた1部屋が4部屋続く、長屋形式だった。

こちらは薪や日常使う用具、食糧なども保管された「木小屋」。

「土蔵」は貴重品を収納するための耐火建築物として建てられました。
「内部の見学、徳川家との繋がりを感じる」

方丈・庫裡・書院の建物内部も見学ができます。
ということで、お邪魔しま~す。

広々した方丈の内部。
ここの畳は現在の畳と違い、えらく長~いサイズですな。

部屋の向かって正面には「仏殿の間」があり、脇仏殿には徳川家康(東照大権現)の位牌が安置されています。
このことが象徴するように、足利学校と徳川家康には深い関わりがありました。
由緒を紐解くべく、戦国時代にさかのぼってみましょう。
戦国時代に小田原北条氏が関東を支配していた時代には、足利学校は北条氏に保護されていました。
小田原北条氏は豊臣秀吉により滅ぼされますが、その際の天正19年(1591年)、秀吉の甥・秀次が貴重な書籍を足利学校から持ち帰ってしまったんですね。
しかしその4年後の文禄4年、徳川家康の取りなしにより京都から書籍類が足利学校に戻されました。
足利学校の第9世庠主・閑室元佶三要(かんしつ げんきつ さんよう)はこれに恩義を感じたとされ、関ケ原の戦いにも家康に従い随行。
元佶三要は以降も徳川家康の厚い信任を得て、足利学校も幕府より百石の朱印地を賜っています。

「尊牌の間」には、歴代江戸幕府将軍2代~11代の位牌も安置されています。
徳川家康以降も災害復興時の援助を受けるなど、江戸幕府の手厚い保護がありました。

北側と南側には庭園があります。

庫裡はゆかり資料の展示コーナーになっています。

北条氏政によって寄贈された「文選(もんぜん)」には、最後のページに北条氏の虎の朱印が押されていた。
この文選は、現在国宝指定されています。(展示は複製品)
「歴代庠主の墓ほか」 西側を歩く

変わって敷地の西側を歩くと、「歴代庠主の墓所」がありました。
庠主制は明治に足利学校が藩校になるまでの約430年間続き、23代に渡ったそうだ。
墓は17基あり、うち8基には文字が刻まれて主が判明しているが、残り9基は不明とのこと。

足利学校廃校後に開設された「遺跡図書館」。
建物は大正期のもので、現在は郷土資料の展示や書籍の閲覧ができる施設になっています。

最後に紹介するのは「字降松(かなふりまつ)」と呼ばれる松の木。
学生が読めない文字に出合った際、紙に書き込んで松の枝につけておくと和尚が見て、ふり仮名・注釈を付けてくれたのだそうだ。
文通みたい。奥ゆかしい世界でしたねえ。
アクセス
足利学校(公式ページ)
住所:栃木県足利市昌平町2338(GoogleMapで開く)
参観料:一般 420円、高校生 220円
受付時間:
・4月~9月:9:00~16:30
・10月~3月:9:00~16:00
アクセス:
電車)
・JR両毛線「足利駅」から徒歩約10分
・東武伊勢崎線「足利市駅」から徒歩約10分
車)
・北関道自動車道「足利IC」から約15分
・境内無料駐車場50台
足利学校に出かけてみませんか?

日本最古の学校の遺跡・足利学校を紹介しましたが、いかがでしたか?
戦乱の中でも学びの灯を絶やさなかった、貴重な教育の場としての歴史を感じました。
同時に、その背景には時の権力者たちとの結びつきがあったのもそれを支えた一因だったのだな、とも感じました。
足利市は足利氏発祥の地といわれ、関連史跡の鑁阿寺(足利氏宅跡)もあります。
市内には渡良瀬川のんびりと流れ、悠久の歴史を感じるには静かで良い所ですよ!
そんな足利市に出かけてみませんか?
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