江戸時代、埼玉県幸手市にあった日光街道の宿場町「幸手宿」は、比較的大きな宿場町でした。
幸手宿は、将軍家が日光東照宮参拝時に使用した日光御成道が合流する地点でもあり、将軍が休憩所に使った寺院もあります。
そんな旧街道で、宿場町の痕跡を残す案内板や道しるべの史跡などをめぐります。
江戸時代末期の古民家でのカフェランチの紹介もありますよ。
目次
幸手市と日光街道「幸手宿」について
江戸時代の五街道のひとつ日光街道は、江戸日本橋から、徳川家康公を祀る日光山東照宮への主要道路として整備された全長約142kmに及ぶ街道です。
日本橋を出て千住宿を過ぎると、次の宿場町からは現在の埼玉県に入り、草加宿・越ヶ谷宿・粕壁宿・杉戸宿・幸手宿・栗橋宿と続きました。
「幸手宿」は日光街道の6番目の宿場町です。
幸手宿は将軍家が日光社参の際に江戸から使った「日光御成道」が、日光街道と合流する場所として重要な宿場町となっていました。
そんな幸手で、宿場町の面影を探しながらの街歩きをします。
『幸手駅周辺の散策』
幸手駅は桜模様
幸手といえば「権現堂桜堤の桜」で良く知られます。
約千本のソメイヨシノが1kmに渡って咲き誇る、関東でも有数の桜の名所で春には多くの花見客でにぎわいます。
2019年に整備された比較的新しい幸手駅駅舎にも、ここかしこに桜模様があしらわれています!
そしてこちら。
さくらの街のパネルにまざって、マラソンのオリンピック金メダリスト・高橋尚子さんの手形とサインを発見。
はて、花見にいらしたのかな?と思いましたが、後で調べたらこれ、「ハッピーハンド」だそうです。
ん、何それ?ですよね。
幸手を英語に直訳すると、”幸=ハッピー”と”手=ハンド”だそう。
それにちなみ、毎年市民に感動を与えてくれた人を投票で選出、その方の手形をモニュメントにして展示しているそうだ。
市名にひっかけてなかなか凝ったことしてますねえ、幸手市。
「一色稲荷神社」 かつて幸手城があった
そんな感じで駅前から散策開始です。
駅周辺にはかつて戦国時代から江戸時代前期にかけて、幸手領主の武将・幸手一色氏の城があったそうです。
城の面影は残ってませんね。
駅前にあるこちらの「一色稲荷神社」は、別名・陣屋稲荷と呼ばれます。
かつては幸手城の一角に祀られていた氏神であった、と伝わります。
駅近辺には城山や陣屋という地名が、 幸手城の名残として残っているそうです。
『旧日光街道を歩く』
「神明神社・明治天皇行在所跡碑」 宿場町入口
幸手駅東口を直進すると、程なく幸手宿があった旧日光街道にぶつかります。
旧日光街道と交差する場所には「神明((しんめい)神社」が鎮座。
この辺りが丁度、幸手宿の南側(江戸方面)入口にあたる場所。
江戸時代には、幕府の掟書などを掲示するための「高札場(こうさつば) 」が設置されていたそうです。
神明神社は、江戸中期に建立された神社。
境内の菅谷不動尊は「たにし不動尊」ともいわれ、眼病の人がたにしを描いた絵馬を奉納祈願すればご利益があるとのこと。
たにしって川にいる貝のあれ?ちょっと変わった風習ですね。。。
新明神社の道路挟んだ反対側に「明治天皇行在所跡(あんざいしょあと)」の碑がありました。
明治14年(1881年)と明治29年(1896年)の2回、明治天皇が行幸した際、幸手に滞在したことを伝える碑でした。
これは民家脇の、ウナギの寝床のような小さな公園にあった。
住宅化した地域に史跡を残すのも大変なんだなーって、ちょっと思いました。
規模が大きかった幸手宿
さて、旧日光街道に沿って栗橋方面(日光方面)に向かい歩いてみます。
歩きはじめると古い造りの家屋が何軒か見えてきます。
幸手宿は長さ9町45間(約1km)、最盛期の家数は962軒で人数は3,937人でした。
本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠27軒があり、日光街道では千住宿、越ヶ谷宿に次ぐ3番めの規模を誇っていたそうです。
写真の「小島商店」は昭和初期の建物だそう。
こちらの「武村家」も昭和初期の建物だそうです。
「永文商店」 松尾芭蕉の線画
「永文商店」は創業は明治36年(1903年)の創業で、100年以上にわたり食品関連の流通業を営んでいます。
建物は大正から昭和にかけて築造された、木造二階建ての看板建築。
江戸時代には、松尾芭蕉と弟子の河合曽良(そら)が、おくの細道紀行で幸手宿に立ち寄りました。
建物側面にはその道中の様子が線画で描かれており、宿場町の雰囲気を出しています。
下のトタン部分には、芭蕉の句「幸手を行かば 栗橋の関」と、曽良の句「松杉を はさみ揃ゆる 寺の門」が描かれています。
街道沿いの商家は、間口が狭く奥行が長いのが一般的でした。
永文商店もそのような造りで、一番手前が店舗、次が住居、一番奥が倉庫。
建屋の横にレールが見えますが、そのような建屋で商品運搬に活躍したのが敷地内のトロッコ。
戦前から使われたトロッコは、現在も現役で活躍しているそうですよ!
「問屋場跡・本陣知久家跡」 旧宿場の中心部
宿場町の中間地点の辺りには、ポケットパークと称する小さな公園がありました。
ここは宿場町時代の「問屋場」跡地になります。
問屋場は、旅人の世話・荷物の運搬、その他街道に関わる事務を管理する役所のことだそうです。
幸手宿の問屋場役は、問屋4人・年寄り8人・帖付4人・馬指4人・見習1人・月行事4人の総勢25人。
年間休むことなく交替しながら業務を続け、人足25人と馬25頭の常駐が義務づけられていたそうです。
結構詳細な説明ですね、興味深い内容だ。
問屋場跡の裏手には、蔵造りを備えた大きな屋敷が見えました。
旧家の御宅でしょうか。
問屋場跡の通りを挟んだ向かいには、「本陣知久家跡」の看板があります。
本陣は、江戸時代に大名などが宿泊する際の旅宿。
この辺りが宿場町の中心部だったようですね。
看板以外の当時の遺構などは、ありませんでした。
宿場町の雰囲気を残す町並み
日光街道沿いには、大正から昭和にかけて建てられた、木造2階建ての商家が10軒程度残ります。
それらが旧街道の名残を感じさせます。
洋風のレトロな感じの建物も時折見られ、時代が交錯する街並みがちょっと面白い。
「聖福寺」 将軍・例幣使専用の勅使門
宿場町歩きも後半に掛かります。
「聖福寺(しょうふくじ)」は、宿場町の北側に位置します。
創建は約600年前で、室町時代の応永年間(1394~1428年)と伝わります。
歴史がありますね~。
聖福寺は、江戸時代の将軍の日光社参の折りや、天皇の代理として東照宮例大祭に参拝した例幣使(れいへいし)の休憩所に用いられたそうです。
唐破風の造りの山門「勅使門(ちょくしもん)」は、当時、将軍と例幣使以外は通行できなかったそうですよ。
唐破風がついた四脚門で、扉には菊の紋様が刻まれています。
参道には松尾芭蕉と河合曽良の句碑があります。
刻まれている句は、先ほどの永文商店の壁面に書かれていた句と同じです。
弟子の曽良が詠んだ「松杉をはさみ揃ゆる寺の門」の句の、”寺の門”はこの聖福寺の門のだった、とも言われているんですよ。
「正福寺と日光道中道標」 徳川家綱が宿泊
聖福寺の近くのこちらのお寺も、表記は違うが同じ呼び名の「正福寺 (しょうふくじ)」。
たまたまなんでしょうかね?
正福寺には、徳川4代将軍・家綱が、将軍に就任する以前の慶安2年(1649年)に宿泊したという記録が残っています。
当時の家綱は9歳でした。
境内には大きな「日光道中道標」があり、宿場町時代の面影を残します。
左側には”日光道中”と彫られています。
右側には”ごんげんどうかし”とあります。
かしは”河岸”で、船着き場の方向を指すものでした。
「義賑窮餓之碑(ぎしんきゅうがのひ)」。
天明3年(1783年)、浅間山の大噴火により大飢饉が発生したそうだ。
その際、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けたそうです。
この碑はこれを讃え建てられた碑だそうで、埼玉県の指定文化財となっています。
「幸手一里塚跡」 日本橋から12里地点
幸手宿の北端の辺りにある一里塚跡碑。
一里塚は旅行者用の目印として、約4kmごとに造られた塚の事です。
江戸時代に主要な街道に整備され、幸手の一里塚は日本橋から12里(約47km)を示す一里塚でした。
道路わきにちょこんと石碑と説明板が残っているだけで、塚自体は残っていません。
この辺りで日光側の幸手宿が終わります。
『日光街道道しるべ』 権現堂付近
内国府間(うちごうま)という場所の道しるべに車で立ち寄ったので、ちょっとご紹介。
幸手駅からは3km程離れた場所です。
これは安永4年(1775年)、日光街道と筑波道の分岐点に建てられたものです。
正面には「右つくば道」、左側面には「左日光道」、右側面には「東川つま道 まいばやし道」と刻まれています。
川つま、まいばやしは現在の茨城県方面のこと。
『上庄かふぇ』 江戸期の古民家でランチ
歩いた後は、こちらの古民家カフェ「上庄(うえしょう)かふぇ」でランチにしました。
最初に立ち寄った神明神社の隣にあります。
建物は江戸時代末期のもの。
「岸本家住宅主屋」の名で国の登録有形文化財にも登録されている貴重な文化財なんですよ。
中は蔵造りの風情を残しつつ、綺麗にリノベーションされています。
結構広いですね。
店の中にも蔵があり、離れみたいな感じで面白い。
食事のメニューは洋食系ですね。
生パスタが売りで、モチモチした食感が楽しめました。
お洒落な造りのお店で、店内は賑わっていましたよ。
基本情報・アクセス
上庄かふぇ(公式ページ)
住所:埼玉県幸手市中2-1-9(GoogleMapで開く)
営業時間:9:00~18:00 定休日:不定休
アクセス:
電車)東武「幸手駅」から徒歩5分
幸手へのアクセス
幸手市で作成された「幸手宿まちあるきマップ」を入手して歩くと便利です。(幸手市のホームページを参照下さい。)
幸手へのアクセス
幸手へのアクセス
電車)※最寄駅・東武「幸手駅」
■浅草・北千住方面より
・東武線「南栗橋行」急行又は区間急行、区間準急の電車を利用。
「浅草駅」から約60分、「北千住駅」から約45分
※久喜行及び館林行の急行又は区間急行利用の場合は、東武動物公園駅で乗り換え。
■大宮方面より
・東武アーバンパークライン(野田)利用で、「春日部駅」で南栗橋行の急行又は区間急行、区間準急の乗り換え。
※大宮駅から約45分。
車)
・圏央道「幸手IC」が市の中心部にあり。
・東北自動車道「久喜IC」から幸手市中心部までは約20分。
日光街道や奥州街道を歩いてみませんか?
持ちやすさや見やすさを考慮した、ハンディサイズがありがたいガイドブック。
幸手の旧宿場町を歩いてみませんか?
幸手の旧宿場町に街道の面影を求めて散策しましたが、いかがでしたか?
幸手駅から端の一里塚までは1km程度の距離なので、のんびり散策するには良い距離でしたよ。
昔の江戸時代の建築物がどどん!と残っている風景には残念ながら出会えませんが、旧街道沿いには説明板が整備されており飽きずに歩けます。
桜の名所「権現堂公園」が幸手にはありますが、桜のみならず四季折々の花が楽しめますので、花の季節にあわせての訪問もオススメですよ。
そんな幸手に街歩きに出かけませんか?
記事の訪問日:2021/5/7
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