室町時代後期に関東で活躍した武将・太田道灌は、江戸城を築くなどで築城名人といわれた一方、歌にも通じたことから文武両道を実践した名将として知られています。
そんな太田道灌の生誕地であると言われているのが、埼玉県越生町。
生誕場所と伝わる、かつて父・道真の砦があり、今も道灌と道真の墓所が残っている「龍穏寺」を訪問します。
途中立ち寄った道灌伝説の故地「山吹の里歴史公園」や、素敵な古民家カフェも併せてご紹介。
目次
「山吹の里歴史公園」太田道灌”山吹の里伝説”の故地
太田道灌、文武両道を実践したその生涯
埼玉県のほぼ中央に位置している越生(おごせ)町は、首都圏50km圏内にありながら丘陵地にある町で、川が流れ山間部もあり里山の雰囲気を感じるエリアです。
観光地としては生越梅林が有名で、梅の郷として良く知られています。
そんな越生が、実は関東の武将として知られる太田道灌(どうかん)の生誕地である、と聞いて今回訪ねてみました。
越生駅に程近い観光案内所に到着すると、その横には「道灌パーク」なる広場があり、さっそく太田道灌ゆかり地の雰囲気が伝わってきます。
さらには越生駅前には、こちらの道灌の像が立っていました。
ここで大田道灌の人物概略を振り返っておきましょう。
太田道灌(1432–1486年)
■永享4年(1432年):扇谷上杉家(おうぎがやつうえすぎけ)の家宰・太田道真の子として生誕。幼少より学問・武芸に秀でる。
■康正元年(1455年):享徳の乱が勃発。扇谷上杉定正に仕え、古河公方足利成氏と対抗する戦いに従軍。
■長禄元年(1457年):江戸城を築城するなど、武蔵国支配の拠点を形成。
■応仁元年(1467年):応仁の乱が京都で勃発し、関東の戦局にも影響。上杉家の内紛が深刻化する。
■文明8年(1476年):享徳の乱の戦局において活躍。河越・江戸一帯の戦略拠点を守備し、軍略家として名を高める。
■文明18年(1486年):主君・扇谷上杉定正の居館で謀殺される。
軍事・築城術を発揮して築城名人と言われた一方、歌・連歌にも通じた文化人としても知られた道灌。
銅像の台座にも銘記があるように、「文武両道」を実践した努力家といわれている武人です。
本日は越生にある、太田道灌ゆかりのスポット2ヶ所をめぐってみます。
「山吹の里公園」春は3千株の山吹で黄金に染まる
最初に訪問するのは、越生駅から500m程離れた東側にある史跡公園「山吹の里歴史公園」です。
山吹大橋を渡って越辺川(おっぺがわ)を越えてゆきます。この越辺川の上流にあるのが、越生町の景勝地として知られる黒山三滝です。
\ 黒山三滝に関する詳しい記事はこちら!/
史跡「山吹の里公園」は藁葺屋根の古民家が建ち、里山のような雰囲気を持つ公園でした。これはなかなか情緒がありますね。
本日は越生町観光案内所の駐車場に車を停めて歩いてきましたが、駐車場もあるので車での訪問もOKです。
この公園は太田道灌の逸話としては良く知られる、「山吹の里の伝説」の故事にちなんだ公園です。伝承の内容を説明板から抜粋。
山吹の里伝説(案内板より)
鷹狩りの途中、にわか雨に遭った若き日の太田道灌は、蓑を借りに貧しい民家を訪ねた。すると、出てきた少女が何も言わずに一枝の山吹を差し出しました。
道灌は少女の謎掛けが解けませんでしたが、後に山吹の花に因んだ古歌「七重八重花は咲けども山吹の実の(蓑)一つだになきぞ悲しき」を知りました。
蓑がない悲しさを歌に託した少女の想いを知り、自分を恥じた道灌は以後に歌道を志した。
後に太田道灌が文人を志すきっかけとなった、とされる逸話です。
ちなみに和歌「七重八重」は、後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう) の中の作品。
山吹の里とされる場所はいくつかの説があります。
中でも、この一帯には古くから山吹が自生し、越生は「道灌の父・道真が館を構えた地」「道灌誕生の地であった」であったことから、山吹の里伝説の故地とされています。
雰囲気たっぷりの茅葺き屋根の水車小屋には、「賤が家」のプレートが掛かります。
特に建物の説明はありませんでしたが、おそらく道灌が立ち寄った民家のイメージなんでしょうね。
公園の裏手は小山になっており、上まで登れます。
頂上からは町内を一望できるほか、秩父方面へと続く山々も見通せてなかなかの見晴らしですね。
そしてこの公園内には約3千株の山吹が植えられており、4月から5月頃にかけて一帯は黄金色に杯に染まるとのこと。
史跡公園としては少し物足りない印象ですが、山吹の咲く季節には素晴らしい景色に出会えそうですよ。
山吹の里歴史公園へのアクセス
山吹の里歴史公園
住所:埼玉県入間郡越生町如意(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・東武越生線・JR八高線「越生駅」から、東方面に400m(徒歩約7分)
車)
・関越自動車道「鶴ヶ島IC」から約30分・「坂戸西IC(ETC車のみ)」から約25分
・無料駐車場あり(普通車4台・軽2台分)
「龍穏寺」太田道真・道灌父子が静かに眠る地
太田道灌が生誕した父・道真の砦があった地
総門
次に、太田道灌と道灌の父・道真(どうしん)の墓がある「龍穏寺(りゅうおんじ)」を訪ねます。
越辺川と並行して続く県道をしばらく走り、途中で県道を外れて2km程進んだ所に龍穏寺はありました。
車だと駅から15分程度で着く場所ですが、この辺は少し走っただけで一気に山間の景色に変わりますねえ。
龍穏寺も山の斜面を切り開いたような一帯に境内があります。
道灌の父・道真は関東管領・扇谷上杉家(かんとうかんれい おうぎがやつうえすぎけ)の補佐として、龍穏寺の領内に築いた砦に居住していました。
そして永享4年(1432年)に、その砦で太田道灌は生まれたと伝わります。
龍穏寺の北東にあたる山中には、山枝庵砦跡と呼ばれる砦の跡地が今も残っています。
「龍穏寺」江戸時代には関三刹として曹洞宗を統括
入口の総門を抜けた先に、風格のある重厚な山門が現われます。これは歴史を感じさせる門ですねえ。
龍穏寺の正式名称は「長昌山(ちょうしょうさん)龍穏寺」。
平安時代の創建とされ、大同2年(807年)に修験者達の寺として建立されたといわれます。
室町時代の永享2年(1430年)になると6代将軍・足利義政が関東管領・上杉持朝に命じて、曹洞宗の寺院として復興させています。
さらに文明4年(1472年)には太田道真・道灌父子によって中興されました。
そしてこの龍穏寺、江戸時代になると幕府より物凄い格式を与えらています。
それは「関三刹(かんさんさつ)」の筆頭寺院の役割で、これは全国約1万5千の曹洞宗の寺院を司るというもの。凄い力を持っていた寺院なんですね!
しかし明治時代になると、廃仏棄釈によりその特権は返上。さらに大正3年の火災では多くの伽藍が焼失し、徐々に衰退しました。
その後、昭和の戦後から近年に至って再び復興されて現在に至るという、栄枯盛衰の歴史を持った古刹というわけです。
関三刹とは
江戸時代に幕府から特別な格式を与えられた曹洞宗の大寺院で、「越生町・龍穏寺(埼玉県)」「最乗寺・通称大雄山(神奈川県南足柄市)」「茂林寺(群馬県館林市)」の三寺。
「関」は関東の意味で、「刹」は大寺院の称号。
三社は徳川幕府により十万石格に準じる待遇を受け、関東曹洞宗の中心として位置付けられました。
人材養成や宗門統制の役割を担い、多くの末寺を統括。将軍や大名からの厚い保護を受け、寺領や建造物の整備も支援された。
天保13年(1842年)に建造されたのこの山門は、大正時代の火災を免れた貴重な建築物の一つです。
外観には江戸時代の名工・岸亦八(きしまたはち)による彫刻が施され、内部には四天王像が収められています。
外側からは見えませんが、2階天井には絵師・酒井抱一派によるとされる極彩色の花鳥山水が描かれているなど、細部にわたる凝った造りにかつての隆盛を感じさせます。
岸亦八(1791-1877年)
地方に根ざしながら、格式ある多くの神社仏閣彫刻を残した名工として知られています。
渡辺亦八として群馬県太田市で出生。10歳頃に熊谷の彫刻師・飯田仙之助に養子・弟子入り。やがて独立し岸亦八として活動開始。
天保7年(1836年)以降、熊谷・越生・伊勢崎などで神社仏閣の彫刻多数を手掛ける。龍の顎がしゃくれる彫刻が特徴。弘化3年(1846年)には前橋藩・館林藩の公儀彫刻請負となっています。
「太田道灌像」主君に裏切られ最期を迎えた道灌
境内の至るとこで見られる苔生す緑が、時の流れを感じさせます。
左側の観音立像の足元には、寄贈されたという江戸城外濠の石が置かれていました。江戸城=道灌つながり、ということなんですかね。
階段を登った本堂の手前には、太田道灌の像がありました。
こちらも越生駅前の像と同様、道灌像の定番の一つである鷹狩の装束姿のものです。
太田道灌の最期は悲劇的でした。
それは文明18年(1486年)、主君・扇谷上杉定正の居館(神奈川県伊勢原・糟屋館)に招かれた際に謀殺されるというもの。享年55歳。
道灌は卓越した能力で扇谷上杉家を繁栄に導きましたが、皮肉なことにその有能さに権勢を恐れられて暗殺されたようです。出る杭は打たれた、ということですねえ。
道灌の絶命の際の言葉は、「当方(上杉家)滅亡」だったといわれています。
小高い丘にある太田道灌・道真親子の墓塔
「本堂」は戦後に再建された建物。
本堂内には、煌びやかな龍の刺繍の織物が掛かっていました。
太田道灌・道真公の墓は、本堂脇から登った小高い丘の上にありました。
石垣の上にあるのが墓塔で、左側が父・太田道真の塔、右手が太田道灌の塔とのことです、合掌。
道灌の墓所と呼ばれる場所は複数あり、終焉地である神奈川県伊勢原市の大慈寺には首塚、洞昌院には胴塚があります。また、太田家子孫が鎌倉に開基した英勝寺にも墓所があります。
龍穏寺は父・道真が眠る地ということで、分骨されたものが納められているといわれています。
道真は道灌没の6年後にあたる応元年(1492年)、退隠していた越生の地で病により81歳で没して当寺院に葬られました。
謀殺され先立たれた息子の死においては、さぞかし無念を感じたことでしょうね。
「経蔵」750両かけて天保年間に建立された蔵
こちらの「経蔵(きょうぞう)」も、火災を逃れて残った江戸時代の建物の一つです。唐風の破風が印象的なこの建物は、お経を納めるための蔵。
天保12年(1841年)に建造されましたが、その費用は750両に上ったといいます。
現在の貨幣価値でいうと1億5千万円くらいですかね?当時の勢いをしのばせますね。
壁面には、曹洞宗の開祖・道元禅師が修行している様子が彫られています。繊細なタッチで見事な描写ですね。彫り物には一部彩色された跡も見受けられます。
蔵の中には八角形の”輪蔵”という回転式のお経を納める棚があり、そこには二千冊・約70余りの経文が収められているとのこと。
また中央に傅大士と脇立両童子の三体が、四隅には梵天・帝釈・持国・増長・広目・多聞・密迹・金剛の八体の神将像が安置されているとのこと。
そして、格天井には花鳥山水、壁に天女を描かれ、酒井抱一が描いた飛龍もあるそうだ。
扉の向こうには、壮麗に装飾された空間が広がっているようです。
「熊野神社」 龍ヶ谷の鎮守
同じ敷地内には龍ヶ谷の鎮守「熊野神社」がありますが、こちらの社殿も火災から逃れた江戸時代のものでした。
「縁側カフェ tokinoki」江戸時代の古民家をリノベ
龍穏寺参拝後に、お寺の裏手に江戸時代末期の古民家をリノベーションした素敵なカフェを発見!こちらで遅めのランチを頂いた。
こちらは、無垢の家具をオーダーメイドで作る工房に併設されたカフェなんだそうだ。カフェの営業は土日のみ。
家具もすべてその工房で造られた物とのことで、いわば食べれるショールームってところですかね。
食後に縁側で昼寝でもしたくなりそうな、静かで落ち着いた雰囲気の空間です。
頂いたのは、看板メニューの「季節の縁側ごはん」。
ご飯は8分づき米の”青柚子香るわかめごはん”とのことで、これは玄米の胚芽が少しだけ残っている状態のものなんだそうだ。これがねえ、モッチリして旨いの。
おかずも素材が生かされた優しい味でしたよ。ご馳走様でした。
結構人気のお店らしいので、予約してのお出かけがオススメです。
縁側カフェ tokinoki
公式ページ
住所:埼玉県入間郡越生町龍ケ谷461(GoogleMapで開く)
営業日:土日祝のみ
営業時間:11時~17時(ラストオーダー16:30)
アクセス:
電車)
・東武越生線・JR八高線「越生駅」から、川越観光自動車バス・黒山線に乗車約20分「上大満(かみだいま)」下車後、徒歩約35分
※バスの本数は1時間に1本程度、ただし運行していない時間帯もあるので注意
車)
・関越自動車道「鶴ヶ島IC」から約35分・「坂戸西IC(ETC車のみ)」から約30分
・駐車場あり
越生のランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
龍穏寺の詳細情報・アクセス
龍穏寺
住所:埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷452-1(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・東武越生線・JR八高線「越生駅」から、川越観光自動車バス・黒山線に乗車約20分「上大満(かみだいま)」下車後、徒歩約25分
※バスの本数は1時間に1本程度、ただし運行していない時間帯もあるので注意
車)
・関越自動車道「鶴ヶ島IC」・「坂戸西IC(ETC車のみ)」から約35分
・駐車場あり(約100台分)
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住所:埼玉県入間郡越生町黒山(GoogleMapで開く)
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車は、関越道「鶴ケ島IC」から約30分(約14km)、または圏央道「圏央鶴ケ島IC」から約30分(約14km)、または関越道「坂戸西IC(スマートインター)」から約25分(14km)。
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