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渋沢栄一を主人公にしたNHK大河ドラマ「青天を衝け」でも取り上げられた、栄一の見立養子だった「渋沢平九郎」。
平九郎は幕末の動乱の中、旧幕府軍の若き兵士として現在の埼玉県越生(おごせ)町で壮絶な最期を迎えました。
その最期の足取りを追いつつ、終焉の地・越生の関連スポットを巡りましたので紹介します。
『越生町と渋沢平九郎』
越生町と渋沢平九郎について

埼玉県越生町は武将・太田道灌生誕の地とも言われています。
越生駅前にも太田道灌の銅像がどーんと建ってますよ。
越生駅には総合案内所が併設されており、こちらに「道灌おもてなしプラザ」という名称が付いていましたねえ。

2021年に渋沢栄一を主人公にしたNHK大河ドラマ「青天を衝け(せいてんをつけ)」が放送されました。
越生町は、このドラマにも登場した若き兵士・渋沢平九郎の終焉の地として知られるようになりました。
訪問時、プラザ内のギャラリースペースでも「渋沢平九郎展」が開催されてましたわ。
平九郎は”イケメン侍”として語られることが多いです。
写真を見ると。。。なるほど、確かに端正でキリッとした顔立ちのイイ男ですな。
そんなことで、本日は越生町の渋沢平九郎の 終焉の地スポットを巡って紹介します。
渋沢平九郎の人物概略

まずは、享年20歳の若さでこの世を去った渋沢平九郎(1847年-1868年)の概略紹介から。
- 弘化4年(1847年):
・現在の埼玉県深谷市下手計(しもてばか)の尾高(おだか)家に出生。
・渋沢栄一とはいとこの関係。
後に姉・千代と栄一の結婚により義弟の関係になる。 - 慶応3年(1867年):
・パリ万博で渡欧する栄一の見立養子(跡継ぎ)となる。
・栄一とは義弟かつ養子という間柄になる。
これは渡欧中に不測の事態が起きても、幕臣としての家系が途絶えぬ様に跡継ぎを届け出する決まりによるもの。
・平九郎の江戸での幕臣生活が始まる。
直後、幕府の大政奉還で天皇へ政権が返上される。
・それを機に明治天皇側の新政府軍と、旧幕府軍が戦う戊辰戦争が各地で勃発。
平九郎も旧幕府側として渦中の人となる。 - 慶応4年(1868年)5月23日:
・旧政府軍と新政府軍との間に「飯能戦争」が勃発。
・平九郎は従兄・渋沢成一郎を隊長とする旧政府軍側の振武軍(しんぶぐん)に参軍、実兄・尾高惇忠(おだかあつただ)とともに新政府軍と戦う。
・振武軍500名に対し、2000~3000名ともいわれる新政府軍が制圧に掛かる。
兵数・装備の力差の前に、旧幕府軍は半日で敗退した。
渋沢平九郎は飯能戦争敗退後、享年22歳の若さでこの世を去ることになります。
その平九郎の足取りを、関連スポットを周りながらたどってゆきましょう。
飯能戦争の旧幕府軍の本陣「能仁寺」は、以下の記事で紹介しています。
『渋沢平九郎自決の地』

最初に紹介するスポットは「渋沢平九郎自決の地」です。
名所・黒山三滝にも程近い、山沿いの県道脇にポツンと碑があります。
意識せず車で走っていたら、通り過ぎてしまいそうな静かな場所ですね。

単身で標高500mの顔振峠(かあぶりとうげ)を越え、この黒山村へ逃れてきました。
平九郎は道中目立たない様にと、その峠の茶屋で女主人に太刀を預けています。
後にこの太刀は渋沢栄一の元に戻ることになります。
ちなみに顔振峠の名は、鎌倉時代に源義経が歩いた際、美しい景観に何度も振り返ったことがその名の由来といわれます。
陣を敷いていた飯能の能仁寺からは、山道を含んで大体50kmくらいの距離。
時間的には10時間程度を要すのではないかなあ。

苦労して峠越えをした平九郎でしたが、残念ながらここで新政府方の斥候3名と遭遇してしまいます。
敗残兵と見破られた平九郎は小刀で1名を切り伏せ、残り2名とも渡り合ったが右肩を負傷。
そして銃弾で太股を貫かれてしまいます。

負傷した平九郎は抵抗むなしい状況を悟り、道端のこの岩に座して自決しました。
享年22歳(満20歳)という若さでした。
争いの様子が妙に詳細に残っていて、本当か?と思いましたが、実はここで負傷した斥候側の治療をした医者が、状況の聴き取りしてたんですね。
様子は絵でも残されていたそうです。
後にそれらの記録が、その兵士が渋沢平九郎であったことを示す重要な情報元となりました。

自刀した岩の脇には、岩に傘を差し出す様に枝を広げている1本の樹木があります。
これは「平九郎ぐみ」と呼ばれ、平九郎の血の色を宿す実を付ける、と案内板に記されています。合掌。
住所:埼玉県入間郡越生町黒山(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)JR八高線・東武越生線「越生駅」西口より、川越観光バス黒山行き「黒山」下車、徒歩5分
車)関越道「坂戸西IC(スマートインター)」から約35分、「鶴ヶ島IC」から約45分
『全洞院』 渋沢栄一命の墓石

次に自決の地から400m程離れた、越辺川(おっぺがわ)沿いにある「全洞院(ぜんとういん)」を訪問しました。
厳しいなあ。。。
首を失った骸は哀れに思った黒山の村人の手により、こちらの全洞院に運ばれ葬られました。

全洞院は龍穏寺(りゅうおんじ)の末寺です。
龍穏寺は太田道灌と道灌の父・道真の墓があるなど、見どころの多い寺院。
ここからは約4km程の場所にあるので、訪問された際は立ち寄りをオススメします。
龍穏寺の詳細についてはこちら。

墓の案内柱に沿って進みます。

一番奥手のひっそりとした場所に、平九郎の墓石がありました。

こちらの墓石は、渋沢栄一の命によって建てられたものです。
平九郎の骸は明治7年(1874年)、後述の法恩寺に埋葬されていた首とともに、東京谷中の渋沢家墓地に改葬されています。
最後はきちんとした形で弔われて何よりですね!

渋沢栄一は全洞院に2度来訪しています。
1度目は明治32年(1899年)、平九郎の兄・尾高惇忠と共に飯能の能仁寺と平九郎自決の地を訪問した後、全洞院で法要を行いました。
その後の明治45年(1912年)にも再訪しています。
住所:埼玉県入間郡越生町黒山674(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)・JR八高線・東武越生線「越生駅」西口より、川越観光バス黒山行き「黒山」下車、徒歩5分
車)・関越道「坂戸西IC(スマートインター)」から約35分、「鶴ヶ島IC」から約45分
『法恩寺』 埋首の碑

高札場でさらされた首の部分は、越生今市宿の民によりひそかに近隣の「法恩寺」に持ち込まれ埋葬されました。
法恩寺は越生駅から歩いて1~2分の場所にあります。

法恩寺は、天平10年(738年)頃、行基によって創建されたといわれる真言宗の寺院。
こちらの中門は江戸時代の正徳元年(1711年)の建立で、越生町では最古の木造建築物だそうです。

こちらの鐘楼も古く、享保6年(1721年)の貴重な木造建築物となります。

まずは本堂にご挨拶。

「渋沢平九郎埋首の碑」は墓地に入る手前の、階段の脇にありました。

こちらが埋首の碑。
昭和39年(1964年)に建てられたものです。再び合掌。

本堂の前に「四国八十八霊場御砂場」がありました。
この足形の下には、八十八ヶ所各霊場の本堂前から拝領した石が納められているとのこと。
合掌して踏めば、八十八ヶ所各霊場をお参りしたのと同じ功徳があるそうです。
これを踏んでありがたく功徳を頂いたところで、本日の渋沢平九郎の終焉スポット巡りを終了します。
住所:埼玉県入間郡越生町越生704(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)JR八高線・東武越生線「越生駅」より徒歩1分
自動車)関越自動車道「坂戸西スマートIC」から約7km、「鶴ヶ島IC」から約9km
「越生町インフォメーションセンター」 名物は梅

本日はちょっと物悲しいスポット巡りになりました。
気分を変えて、駅前の「越生町観光案内所」で地元のお土産を買って帰ります。
越生は、「越生梅林」が看板の観光スポットとなります。
名物の梅にちなんだマスコットキャラクター”うめりん”印のお菓子を購入。
写真のお菓子は、越生産梅肉ペースト入りのあんこで餅を包んだあんころ餅です。
甘さを抑えた、さわやかな梅風味が特長の人気商品。

こちらではコーヒーや軽食を頼むこともできます。
行かれたら観光パンフをもらいがてら、立ち寄ってみましょう。
越生町へでかけてみませんか?

短い人生となってしまった渋沢平九郎の終焉の地を巡ってみましたが、いかがでしたか?
江戸幕府の終焉において、江戸城は無血開城されたといわれます。
しかし、時代のはざまのその裏側ではやはり幾多の流血があったことを改めて感じました。
越生の町は武将・太田道灌生誕の地としても知られてます。
歴史の物語を巡りに、越生町へ出かけてみませんか?

サステナブルにお得な買い物ができるって、いいんじゃない。
【記事の訪問日:2021/10/10】