埼玉県久喜市には、江戸時代に日光街道唯一の関所が置かれた「栗橋宿」がありました。
その関所を通過すると、次の茨城県側の宿場町の手前には利根川が待ち構えます。
栗橋宿ではその人馬輸送の舟運が運行され、人々が行き交った川の町です。
そんな旧栗橋宿を、かつての関所の歴史をたどりながら歩きます。
栗橋に残る鎌倉時代の伝承地、「静御前の墓」も紹介します。
目次
日光街道と栗橋宿
江戸時代の五街道のひとつ日光街道は、江戸日本橋から、徳川家康公を祀る日光山東照宮への主要道路として整備された全長約142kmに及ぶ街道です。
日本橋を出て千住宿を過ぎると、次の宿場町からは現在の埼玉県に入り、草加宿・越ヶ谷宿・粕壁宿・杉戸宿・幸手宿・栗橋宿と続きました。
「栗橋宿」は日光街道の7番目の宿場町で、江戸から出発すると現在の埼玉県域の最後の宿場町になります。
そして、この先の利根川を越える為の、日光街道唯一の関所があった町として知られます。
そんな、旧栗橋宿を歩いてみたので紹介します。
『静御前の墓石』 源義経の内妻
栗橋駅東口を出ですぐの場所に、小さな広場があります。
こちらにあるのは、源義経(みなもとのよしつね)の内妻であった「静御前の墓」だといわれています。
説明板による解説があります。
静御前は白拍子(しらびょうし)と呼ばれる舞を生業としていた女性で、源義経からの寵愛を受けていました。
静御前は義経を追って京都を発ち、奥州平泉に向かいました。
しかし、途中で義経の死を知り、文治5年(1189年)に当地で亡くなったと言われています。
源義経は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の異母兄です。
宿場町以前の時代の話ですが、ぐっと歴史の世界に引き込まれるスポットですね。
ちなみに、静御前が亡くなった場所に関しては諸説あるようです。
駅を後にして、旧日光街道へ向かいます。
途中「宝治戸池(ほうじどいけ)」という池がありました。
江戸時代の寛保2年(1742年)に発生した、利根川旧流の一つ浅間川の氾濫によりできた池だそう。
この池、由緒はよくわからんのですが、昔から「金の延べ棒が池底に沈んでいる」という伝承があったそうなんです。
それでもって、潜水夫が池を調査したが発見できなかったらしい。
一見、住宅街の貯水池みたいな佇まいですが、ロマンが眠ってる場所ですな。
『関所があった栗橋宿を歩く』
「旧日光街道沿いを歩く」
旧日光街道は、茨城県との県境の利根川沿いにあります。
現在は古い造りの木造家屋が数か所で見られ、宿場町の面影が僅かながら残っていますね。
かつての栗橋宿の規模はそれほど大きくは無く、県内の宿場町の中では杉戸宿についで小さかったそう。
東三丁目の交差点近くの、古い造りの木造家屋と石蔵のお宅。
この辺りの横道は、日光御廻道(にっこうおまわりみち)と呼ばれたそう。
日光御成道なら聞いたことあるけど、御廻道は初耳。
これは川の氾濫に備えて、将軍家が日光街道を使用できない時用に造られた、迂回路だったそうなんですわ。
川に近い町ならではの備えがあったのですね。
蔵造が残る御宅。
街道の佇まいの雰囲気はありますが、残っている古い建物の軒数は少なめかな。
「顕正寺」 本陣を務めた池田家の墓
街道沿いにある「顕正寺(けんしょうじ) 」。
慶長年間(1596~1614年)に幕府に願い出て、このあたりの上河辺新田を開墾した池田鴨之介の墓があるお寺。
開拓地は後の栗橋宿となります。
これにより池田家は、代々栗橋宿の本陣を務める役どころとなりました。
「栗橋関所跡」 正式名称・房川渡中田関所
こちらに「栗橋関所跡碑」があります。
この辺りは複雑な区画では無いので、跡碑探しに迷う要素は無いはずですが。。。、行ったり来たりで探してしまった。
事前では利根川の堤防沿いに設置されてるイメージでしたが、治水工事の関係で設置場所が移動されたみたい。
現在は上記のような空き地みたいな空間に、ポツンとあります。
栗橋関所跡石碑は、大正時代に造られたものです。
栗橋関所は日光街道で唯一の関所でした。
栗橋関所は対岸の中田と併せて、「房川渡(ぼうせんわたし)中田関所」が正式名称。
これは、江戸時代の利根川に橋は架かっておらず、渡船で栗橋宿と対岸の中田宿とを往復した渡船場が「房川の渡し」と呼ばれていのによります。
関所は江戸幕府により、主要な街道の国境の山地や大河川を越す要地に設けられました。
そして「入り鉄砲に出女(でおんな)」が特に取り締まられました。
江戸幕府は諸大名の謀反を受けないよう、その妻子を江戸に住まわせました。
その妻女が関外に出るのを厳しく取り締まったのが、”出女の取り締まり”ってことです。
鉄砲は文字通り軍事的な観点での取り締まりですね。
上の写真はJR栗橋駅の構内にあるパネルで、江戸時代の天保3年(1832年)当時の栗橋宿と関所の様子が描かれています。
ちょっと小さい図ですが、右下の四角に囲まれた一角が関所です。
堤防より川岸寄りに盛土がされ、そこに設置されています。
関所周辺の川中には、水流を弱めるための杭で囲んだ”土出し”が描かれています。
これは、氾濫の際、関所が流されないよう水流を弱めるための当時の土木技術になります。
『八坂神社』 栗橋の総鎮守
最後に栗橋宿の総鎮守「八坂神社」の紹介です。
八坂神社は、元々現在の茨城県側の元栗橋(現、五霞町)に鎮座してました。
しかし、江戸時代の慶長年間(1596~1615年)の利根川の大洪水に見舞われた際、現在の場所へ移されたそうです。
栗橋の町自体も、元々は栗橋村(現、茨城県五霞町)にあり、やはり利根川の大洪水により寛永年間(1624~1644年)この地に移ってきました。
以来、栗橋宿の総鎮守として崇敬されるようになったそうです。
そんな「八坂神社」ですが、今回の訪問時はなんと!神社のお引越しの真っ最中でした。
こちらは新しい社殿がある、高台の移転先です。
社務所は既に移転完了で、オープンしてました。
この神社には、珍しい狛鯉(こまこい)の像があります。
昔から利根川の流れとともに暮らしている地域であることを、改めて感じさせます。
眼下の空き地が元々の八坂神社の所在地で、ほぼ更地になってました。
この辺りは日本最大の流域面積である利根川が流れるエリア。
堤防の決壊が無きように、利根川堤防強化対策が行われている現況です。
その一環として八坂神社も移動せざるを得ない、という事情によるもののようです。
利根川との共存というテーマが、昔も今もこの地域にはある様です。
周辺は関所や本陣、その他、関連屋敷などの遺跡が多く埋まっている可能性がある地域。
対策工事と並行して、埋蔵文化財の発掘作業が進められていました。
現在の利根川橋。
橋を越えると茨城県古河市中田になります。
八坂神社
公式ページ
住所:埼玉県久喜市栗橋北2-15-1 (GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)「栗橋駅」東口より徒歩15分
車)国道125号線 利根川橋南詰大利根方面に進み左側坂下
栗橋へのアクセス
栗橋へのアクセス
電車)*最寄り駅はJR「栗橋駅」
・JR「上野駅」からJR宇都宮線乗車で「栗橋駅」まで約1時間
・JR「池物駅」からJR湘南新宿ライン乗車で「栗橋駅」まで約55分
・東武線「北千住駅」から「栗橋駅」まで急行利用で約50分(南栗橋駅で乗換えあり)
車)
・最寄りICは、東北自動車道「加須IC」、圏央道「五霞IC」「幸手IC」
日光街道や奥州街道を歩いてみませんか?
持ちやすさや見やすさを考慮した、ハンディサイズがありがたいガイドブック。
旧栗橋宿を歩いてみませんか?
栗橋の宿場町歩きをご紹介しましたが、いかがでしたか?
宿場町の面影を残す建物などは正直あまり残っていませんでしたが、関所跡や八坂神社を巡りながら、昔より利根川と共にある町の歴史を感じました。
そんな、川沿いの旧宿場町を歩いてみませんか?
記事の訪問日:2021/5/8
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