「行く春や鳥啼き魚の目は泪」。元禄2年、深川から舟を出した松尾芭蕉は、千住の地で陸へと上がり、いよいよ果てしない”おくの細道”への第一歩を踏み出します。
芭蕉が矢立初めの地に選んだ千住宿は、単なる日光街道の一宿場町ではありませんでした。
隅田川で運ばれる膨大な物資が陸揚げされる「河岸」があり、江戸三大市場の一つ「やっちゃ場」を抱える、巨大な物流ハブだったのです。
そんな松尾芭蕉も歩いた旧千住宿を、当時の面影を探しつつ歩いてみました。
目次
【旅立ち】墨田川と千住大橋、松尾芭蕉が踏み出した”最初の一歩”の地
「奥の細道 矢立初めの地」江戸との別れ、未知なる旅の始まり
江戸時代になると江戸と主要地方を結ぶ五街道が整備されますが、その一つである日光街道において、江戸日本橋を出ると最初の宿場町が千住宿です。
そしてその千住の地は、松尾芭蕉が約150日間にも及ぶおくの細道紀行へ旅立った地でもありました。

南千住駅前に立っていたのは、千住の地で最初の一句を詠んでいる松尾芭蕉像。
そこでは江戸との別れを万感の思いで綴っていますが、旅立ちの地であった千住で芭蕉はどんな風景に出会ったのでしょう?
本日は松尾芭蕉が見た情景を探しつつ、日光街道の旧千住宿を辿ってみます。

南千住駅からかつての日光街道の道筋である国道4号線に出て、1.5kmほど北に歩くとぶつかるのが隅田川。
その墨田川に架かる千住大橋付近こそが、かつて松尾芭蕉が弟子の河合曾良(そら)を伴って旅立った場所なんですね。
現在2本架かる橋のうち、昭和2年(1927年)に架橋されたアーチ型の旧橋のプレートには、シンプルに「大橋」と書かれています。
千住大橋は徳川家康が天正18年(1590年)に江戸に入府した際、隅田川に初めて架けた橋として知られます。
その後、長きに渡り隅田川に架かる唯一の橋だったため、当時は「大橋」とだけ呼ばれていました。
その名残りを残しての表記なのでしょう。

橋を渡った北側には「足立区立 千住大橋公園」という小さな公園があり、その入口に”奥の細道 矢立初めの地”の碑が立っています。
矢立(やだて)って何ぞや?ですが、これは筆と墨壺を組み合わせた携帯用筆記具のこと。つまり、ここはおくの細道紀行における読み初めの地ということですね。
元々の矢立の語源は、武士が矢の携帯に使用した矢筒。
鎌倉時代、携行する際、筆記具として小型の硯(すずり)と筆を入れる習慣があり、”矢立の硯”と呼ばれました。その後、矢立は携帯用の筆記具一式を差す言葉として広まったんですって。

公園内にある「おくのほそ道矢立初の碑」に、芭蕉の矢立初めの句が彫られていました。
千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに別離の泪をそゝく
行春や鳥啼魚の目は泪
是を矢立の初として、行道なをすゝまず。
人々は途中に立ならびて、後かげのみゆる迄はと見送なるべし。
千住大橋公園「史跡 おくのほそ道矢立初の碑」より
過ぎゆく春を惜しみつつ別れの情を重ね、旅立ちの寂しさと不安を表現した、芭蕉の紀行の出発を告げる象徴的な一句です。

おくの細道の旅程が記された大きな地図もありました。
松尾芭蕉の”おくの細道”紀行と俳諧の概要
■期間:元禄2年(1689年)3月27日~9月6日(約150日間)
■全行程概要・距離:江戸から東北・北陸を巡って大垣(岐阜県)に至る、約600里(2,400km)
■俳諧の構成と文体:簡潔で洗練された”和漢混交文”の散文と、その場で見事に切り取られた”俳句”が融合して、格調高いリズムで展開されてゆきます。
■象徴的な名所:
平泉ーー「夏草や兵どもが夢の跡」- 奥州藤原氏の栄華と没落を、悠久の自然と対比させました。
立石寺ーー「閑さや岩にしみ入る蝉の声」- 深い静寂と精神の集中を表現した絶唱。
松島ーー あまりの絶景に句を詠めなかったという逸話が残るほど、景勝地としての印象を強めた。
旅の目的は、かつて西行法師などの歌人が詠んだ名所(歌枕)を自らの足で訪ね、古人の精神に触れることでした。
電車も自動車もない時代、2,400kmに及ぶ距離を歩くその苦労たるや想像に難しくないですよね。
そんな芭蕉が命がけで踏破し記した”おくの細道”紀行は、現在でも多くの人々が芭蕉の足跡をたどる旅に出るなど、時代を超えて愛され続けています。
奥の細道 矢立初めの地
住所:東京都足立区千住橋戸町31-31-1 千住大橋公園内(GoogleMapで開く)
電車)
・京成電鉄本線「千住大橋駅」北口から徒歩約3分
・JR・東京メトロ・つくばエクスプレス「南千住駅」西口から徒歩約13分(約900m)
・JR・東京メトロ・東武鉄道・つくばエクスプレス「北千住駅」西口から徒歩約17分(約1.2km)
車)
・駐車場無し
千住は江戸の”出口”であり、物資が流れ込む”入口”でもあった

千住大橋公園からは、墨田川沿いに続く遊歩道に下りることができます。橋下には屋形船や釣り船の発着所があります。

そして壁面に芭蕉の矢立初めの一文とともに描かれていたのは、芭蕉と曾良が旅立つ様子。
芭蕉は深川の芭蕉庵を引き払った後に舟で隅田川を移動し、千住大橋付近で上陸したといいます。
約340年前に2人が舟から降り立った地が、まさにこの辺りだったのでしょう。

芭蕉も下り立ったこの場所には、橋戸(はしど)河岸と呼ばれる舟着場がありました。
実はこの橋戸河岸は、千住宿のみならず江戸の生活を支える巨大な物流ターミナルとしての役割を担っていたんですね。

歌川広重が描いた「名所江戸百景 千住乃大はし」(案内板より)
橋戸河岸の役割や特徴
■物流の中継点:荒川(現、隅田川)や綾瀬川の水運を利用した、北関東や東北からの物資の集積所として機能。
■主な取扱品:米、野菜、川魚、陶器、そして特に材木が大量に運び込まれた。
■千住青物市場の起点:河岸に届く新鮮な野菜が、江戸三大青物市場(やっちゃ場)の一つ、千住青物市場の発展を支えた。
■将軍専用の「御上り場(おあがりば)」:河岸のすぐ近くには、将軍が鷹狩り地への移動の起点として千住を訪れる際に使う専用の船着場もあった。
当時の「千住」は旅人が江戸の外へ向かう”出口”であるとともに、江戸の生活を支える物資が流れ込む”入口”でもあったわけです。
芭蕉はこの河岸の活気ある情景に出会ったことにより、ことさら賑やかな江戸を離れる寂しさをつのらせたのではないでしょうか。
【市場】「千住のやっちゃ場」江戸の胃袋を支えた江戸三大青物市場の一つ
千住宿発展の背景にあったのが千住青物市場
千住大橋の北側には、水産物専門の中央卸売市場である足立市場があります。ここは江戸時代から続いた青物市場を前身とする市場です。

日本橋から最初の宿場にあたる千住(日光街道)、板橋(中山道)、内藤新宿(甲州街道)、品川(東海道)は「江戸四宿」と呼ばれました。
その中でも、江戸末期には人口が約1万人に上ったという千住宿は、品川宿の人口6千500人を大きく引き離し、江戸近郊では最大規模の宿場町だったんですね。
その発展の背景にあったのが、神田・駒込とともに江戸三大青物市場と呼ばれた千住青物市場の存在。
幕府に野菜を納める御用市場の役割も担っていました。
千住青物市場は陸上・海上による物流ターミナルを持つ立地を生かし、近隣の農村から集まる豊富な農産物を江戸市中へ供給し、宿場町の繁栄を支えました。
足立市場は奇数月の第2土曜日(1月は第3土曜日)には一般開放されるので、かつての青物市場の賑わいに想いを馳せながら、買い物や食事を楽しむのも楽しそうですよ!
東京都中央卸売市場 足立市場
公式ページ
住所:東京都足立区千住橋戸町50(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・京成本線「千住大橋駅」下車、1番出口より徒歩2分
・東京メトロ他各線「北千住駅」1番出口より徒歩13分
・コミュニティバスはるかぜ5号「足立市場入口バス停」下車すぐ
「奥の細道プチテラス」芭蕉像が立つ旧日光街道の入口

足立市場の正面ゲートの隣にあるのが、千住宿 奥の細道プチテラスと名付けられたこちらの広場。

広場にある松尾芭蕉像は、芭蕉生誕360年にあたる平成16年(2004年)に立てられたもの。

ここは国道4号線から旧日光街道が分岐する、その入口にあたります。
大名行列を描いたパネルなどもあり、小さな広場ながら旧街道歩きの気分を盛り立ててくれるスポットでした。
「千住のやっちゃ場」かつては30数軒の青物屋が軒を並べた
旧日光街道を進むと河原町に入りますが、この辺りがかつて青物屋が連なっていたエリア。
所々に青物市場時代を偲ばせる案内板が設置されています。

千住青物市場の配置図
当時は街道の両側に30数軒の青物屋が軒を並べ、毎朝威勢の良いセリ声が響き渡ったといいます。
そのセリ声が「やっちゃ、やっちゃ!」と聞こえることから、「千住のやっちゃ場」と呼ばれるようになったとのこと。
”やっちゃ”は”いらっしゃい”から来たもの?とも思ったがそれとは違い、威勢をつけるために発せられた独特の囃(はやし)し言葉だったらしいですよ。

時折見かける当時の屋号による看板と、それに添えられた当時のエピソードを読みつつ、賑わっていた通りを思い浮かべながら歩くのが楽しい。

そして現れたのが、「やっちゃ場の地」の石碑と千住宿歴史プチテラスの看板。

千住宿歴史プチテラスは、やっちゃ場や千住の様子を伝える資料や写真などが展示されているほか、区民ギャラリーとしても利用されている施設です。
天保元年(1830年)に建築された土蔵が、施設建物として利用されています。
千住宿歴史プチテラス
住所:東京都足立区千住河原町21-11(GoogleMapで開く)
営業時間:10時~16時
アクセス:
電車)
・京成本線「千住大橋駅」下車、徒歩5分
・北千住駅下車、西口からコミュニティバスはるかぜ(北千住駅西側地域循環)乗車、千住河原町下車、徒歩すぐ
【中枢】問屋場と本陣が支えた宿場のメインストリート
最盛期の宿場の総範囲は4kmにも及んだ
千住大橋から1km程歩いた辺りで車の往来の多い大踏切通りにぶつかります。

正面に続く細い道が旧日光街道で、横切っているのが大踏切通りです。

その交差点の南西箇所にひっそりと立っていたのが千住高札場跡碑。
高札は幕府や領主が定めた法度や掟書などが書かれた木板の札のことで、それを人目が惹くように高く掲げておく場所が高札場です。
ここは江戸時代も往来が多かった場所だった、という証ともいえます。

問屋場跡前にある千住宿の絵図
大踏切通りを越えると千住1丁目に入りますが、この辺りがかつての宿場町の中心部。
寛永2年(1625年)に千住宿として指定されましたが、当初の宿場は現在の千住1丁目から千住5丁目までの約1kmの範囲でした。
その後、本日通過してきた南側の町が追加され、さらには墨田川対岸の南側の町(現、荒川区)が加わりました。結果、最盛期の宿場の総範囲は約4kmにも及んだ、というのは凄いですよね!

交差点の南東にちょこんと立つのは一里塚跡碑。ここは江戸日本橋から約2里(約7.8km)の地点にあたります。
旅人が距離を知るための目印として使われた一里塚。
ですが、それ以外にも、街道を行き交う馬や駕籠(かご)の運賃、荷物の運送代の計算基準として活用されるなど、交通や物流でも利用された一面を持っていたんですよ。
「問屋場」大名行列の情報が最初に届く”宿場の指令塔”

交差点の先にある足立成和信用金庫の前に立っていたのは、木製の松尾芭蕉像。

江戸の方角を振り返る芭蕉像の表情からは、郷愁の念が見てとれます。
芭蕉の気持ちがヒシヒシと伝わってくる繊細なつくりの像ですが、実はこれ、チェーンソーアートによるものなんですって。へえ~、という感じ。
栃木県鹿沼市のアーティスト・小林哲二氏が、地元の杉の大木を原材料として制作したもので、クッキリとした美しい木目が印象的でした。

足立成和信用金庫の裏手にはちょっとした広場がありますが、ここはかつてあった問屋場(といやば)と貫目改所(かんめあらためじょ)の跡。
宿場には、旅行者に人足(にんそく)と馬の提供をおこなう伝馬(でんま)が義務付けられました。
千住宿に課せられた常備人馬は人足50人・馬50疋(ひき)。その手配をおこなう役場が問屋場です。
馬に積める荷物には重量制限があったため、貫目改所に備えられた秤で検査がおこなわれました。

宿場町というとまず本陣などに目がゆきがちですが、宿場の運営を左右する司令塔の役割といえばこの問屋場。大名行列の到着情報なども、まずここに集まります。
問屋 「先触れが来た。○○藩三万石、今夜泊まりだそうだ。」
年寄 「それは急ぎますな。人足は何人ほど入用でしょう。」
問屋 「馬二十、人足三十とある。すぐ町内に触れて支度させよ。」
年寄 「承知。名主にも知らせて人馬を集めます。」
な~んていう、緊張感のある会話が常に飛び交っていたことでしょう。
現在は小綺麗な市民の憩いの場ですが、かつては絶え間ない人の出入りとともに馬の匂いに満ちた、騒然とした情景が思い浮かんできました。
仙台藩・伊達家や秋田藩・佐竹家が参勤交代で千住を通過

北千住駅を越えると、宿場通りという商店街に入ります。

その商店街に入ってすぐの路地裏で、千住本陣跡の案内板を発見。

案内板によると、かつてこの路地の右手側が、361坪(約109m2)の広さを持つ本陣の敷地だったとのこと。

現在の本陣跡にはLUSH-COFFEEという洒落た感じのコーヒーショップがあり、その前にちょこんと千住本陣跡碑が立っていた。
かつてここにあった市郎兵衛の屋敷が、千住宿唯一の本陣でした。
玄関には本陣の特権であった門構えが付き、建物は間口9間半(約17m)、奥行38間(約69m)だったとのこと。

日光街道及び千住宿には様々な要人の通行がありましたが、中でも重要視さたのが日光山輪王寺の最高責任者・日光門主の通行。上野寛永寺と兼務していたため、江戸と日光を年に3回も往復していたそうです。
さらに、伊達家(仙台藩)、佐竹家(秋田藩)をはじめとする諸大名が、参勤交代で通行しました。
彼らが本陣の利用者だったわけですが、日本橋から比較的近かった千住では宿泊としての利用はそれ程多くなかったようです。
主な用途は江戸に入る前の身支度休憩、といった感じでしょうか。
その辺りの事情が、大規模な宿場にも関わらず、本陣1ヶ所でまかなえた理由だったようですね。
「勝専寺」かつて徳川御殿が置かれた地
旧日光街道から少し西側に外れて、徳川将軍家ともゆかりのある寺院、勝専寺(しょうせんじ)に立ち寄りました。

勝専寺は文応元年(1260年)の開山と伝わる浄土宗の寺院で、入口に赤い門が立っているため通称・赤門寺とも呼ばれています。
”三宮神山”の扁額は、明治12年(1879年)に明治天皇が勝専寺を御巡幸されたのを記念して掲額されたものとのこと。
門の両脇にはレンガ塀が連なっており、ちょと不思議な雰囲気の外観です。

かつての徳川将軍家との関係性を物語るものが、本堂の入口に架かる三つ葉葵紋。
勝専寺は徳川2代将軍・秀忠の時代には鷹狩の際の休息所となり、3代将軍・家光は境内の茶屋に立ち寄ったといいます。
さらに4代将軍・家綱が日光社参をした際には仮御殿が造られるなど、徳川将軍に気に入られた場所だったようですよ。
また、当院に安置されている千手観音立像こそが千住の地名の起源といわれているなど、千住の歴史が交錯するスポットでした。
「横山家住宅」旧千住宿を象徴する伝馬屋敷

再び旧日光街道に戻ります。
千住4丁目にある千住ほんちょう公園は江戸時代の高札場風に造られた公園で、千住宿史跡・旧跡案内図などもあり宿場町の雰囲気が伝わってきます。ちなみに公園にはトイレも完備。

北千住周辺は大正時代の関東大震災や戦時の空襲被害を免れたエリアが多かったため、江戸時代の街割りがそのまま残っているのが特徴です。
このエリアには、宿場町の名残りを感じさせる建物がいくつか残っています。

横山家住宅
かつての伝馬屋敷の面影を残す横山家住宅は、旧千住宿を象徴する建物。
宿場町には人足や馬などの伝馬が義務付けられましたが、伝馬を負担した者には伝馬屋敷が与えられたうえ、年貢の免除などもあったんですね。
紙問屋だった横山家は、その伝馬を負担した富裕な商家でした。
2階のデザイン性のある大きな格子窓が風格を感じさせる。

横山家住宅
戸口は街道側から一段下がった所にあり、お客様を下からお迎えする形状なのが商家らしい。
公開はされていないが家屋内の柱には、幕末の上野戦争時に彰義隊士の敗走兵が付けた刀傷が残っているとのこと。
時代の転換期の証人ともいえる建物ですね。
ちなみに”やっちゃ場跡”にあった千住宿歴史プチテラスの建物は、横山家にあった内蔵を移築したものです。

絵馬屋・吉田家
横山家住宅の向かいに建つ吉田家は、江戸中期より絵馬、地口行灯、凧などを代々描いてきた際物(きわもの)問屋。
8代目の店主となる吉田晁子さんは、足立区登録無形民俗文化財に認定されているそうですよ。
千住宿歩きのお役立ち情報
足立区のコミュニティバス「はるかぜ」
足立区が提供しているコミュニティバス「はるかぜ」を利用すると、安い運賃で区内を移動することができます。歩き疲れたら利用してみるのも良いと思います。
足立区コミュニティバス「はるかぜ」のページ
「観光案内所・お休み処 千住街の駅」記念に御宿場印を購入しよう!

宿場通り商店街にあるお休み処 千住街の駅は、街道沿いの旧家の家屋を利用した観光案内所。
こちらに立寄って、街歩きパンフレットなどの情報を収集しましょう。

左:千住宿の御宿場印(300円)、右:日光街道・日光西街道御宿場印帳(2,500円)
千住街の駅では千住宿の御宿場印が販売されています。
御宿場印は日光街道の各宿場町で販売されており、それぞれが宿場の特徴をイメージした絵柄のもの。
これを集めながら歩くと、宿場町歩きはさらに楽しくなりますよ!専用の御宿場印帳も販売されています。
千住宿の先に続く日光街道・埼玉6宿についても紹介記事がありますので、併せてご覧頂き、御宿場印帳を片手に宿場町めぐりにチャレンジしてみて下さい。
あわせて読みたい
日光街道 埼玉六宿場、草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸・幸手・栗橋を歩いてみよう!
江戸時代の五街道のひとつである日光街道は、江戸日本橋から徳川家康公を祀る日光山東照宮への主要道路として整備された、全長約142kmに及ぶ街道です。日本橋を出て千住…
お休み処 千住街の駅
住所:東京都足立区千住3-69(GoogleMapで開く)
開館時間:9~17時(1月1~3日は10~16時)
休館日:火曜日(祝日と1月1~3日を除く)、12月29~31日
アクセス:
電車)・北千住駅寄り徒歩約5分
休憩・食べ処スポット
飲食店も多い千住エリア。その中でも宿場町めぐりの余韻が楽しめそうな、旧日光街道沿いにある休憩・食べ処スポットをいくつかご紹介します。
かどや(だんご屋)
千住5丁目にある昭和23年創業の街道名物のだんご屋。
かつて本陣に槍を立てかけたという伝承にちなんだだんごは、みたらしとあんこの素朴な味わい。歩き食べにも最適。
住所:東京都足立区千住5丁目5-10(GoogleMapで開く)
喫茶 蔵(カフェ)
大正時代の質屋の蔵をリノベーションしたカフェ。
重厚な扉と静寂な空間が、一瞬で大正・昭和へと時間を引き戻してくれます。
住所:東京都足立区千住1丁目34-10(GoogleMapで開く)
エスディコーヒー北千住(カフェ)
千住名物の銭湯文化を現代風にアレンジしたユニークなカフェ。
昭和レトロな雰囲気に満ちた古き良き雑貨が多く並んでおり、思わず昭和にタイムスリップしてしまいます。
住所:東京都足立区千住4丁目19-11(GoogleMapで開く)
一歩一歩(ろばた焼き)
宿場町の古民家を再生した居酒屋・食堂。
太い梁のある空間で、千住の活気を感じつつ食事ができます。料理はどれも美味しいと評判。
住所:東京都足立区千住3丁目53(GoogleMapで開く)
千住のランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
日光街道や奥州街道を歩いてみませんか?
持ちやすさや見やすさを考慮した、ハンディサイズがありがたいガイドブック。
江戸時代に歌川広重が描いた名所江戸百景を、現在の写真や地図と対比して解説したガイドブック。
東京歩きが楽しくなる1冊!
旧千住宿を歩いてみませんか?
かつて松尾芭蕉が未知なる旅路に胸を震わせ、数多の旅人が江戸との別れを惜しんだ千住宿。
今、その街を歩けば、商店街の路地裏やビルの隙間から、時折400年前の市場の活気や喧噪が風に乗って聞こえてくる気がします。
あなたも次の休日、千住の街を歩いてみませんか?そこには教科書には載っていない、生きた江戸の鼓動が待っていますよ。
記事の訪問日:2024/9/28




千住周辺の立寄りスポットを探して予約しよう!割引プランも!
近隣スポットもチェック!
あわせて読みたい
【1日乗車券400円】都電荒川線で御朱印巡り!「都電神社めぐり」4社を歩くレトロな休日
現在東京に唯一残る路面電車、さくらトラムの愛称で親しまれている都電荒川線。その沿線には魅力的な神社が多くありますが、今回、専用の御朱印帳を持って4つの神社を巡…
あわせて読みたい
日光街道「草加宿」、松尾芭蕉も歩んだ千住・越ヶ谷の間の宿【埼玉・草加市】
江戸日本橋から2番目の日光街道の宿場町「草加宿」は、日光街道の中では比較的規模の大きな宿場町でした。旧街道を歩き、かつての草加宿の面影を探しながら宿場の歴史を…
あわせて読みたい
飛鳥山公園、徳川吉宗が整備した江戸時代よりの桜の名所【東京・北区】
東京都北区にある市民の憩いのスポット、「飛鳥山公園」を歴史散歩します。桜の名所として知られる公園ですが、これは徳川吉宗による整備に始まりました。また、上野公…
あわせて読みたい
桜咲く音無親水公園で、広重も描いた景勝地の面影をたどる【東京・北区】
江戸時代、武蔵野台地の突端にあたる王子に流れていた石神井川(当時は音無川)沿いには、滝や淵が連続する荒々しい景観が広がっていたといいます。この様子は歌川広重…

他の宿場町の記事もチェック!
あわせて読みたい
越ヶ谷宿はなぜ巨大宿場へと成長した?物流ハブの実像を紐解き歩く【埼玉県越谷市】
江戸日本橋を発ち、千住宿、草加宿を経て辿り着く日光街道3番目の宿場、越ヶ谷宿。今も旧街道を歩けば重厚な出桁造の軒先や、真っ白な漆喰の蔵が目に入ってきます。しか…
あわせて読みたい
どこまでが城?土浦城の境界線をなぞる、街道と溶け合った城下町歩き【茨城県土浦市】
なぜ土浦は城下町でありながら宿場町としても発展したのか――その答えは、霞ヶ浦と水戸街道が交差したそのロケーションにあります。現存する櫓や堀、そして旧街道沿いの…
あわせて読みたい
蔵の街 栃木、今も残る日光例幣使街道と巴波川舟運で栄えた面影【栃木・栃木市】
江戸時代の栃木市は、朝廷の使者である例幣使が日光に向かう際に使った「日光例幣使街道」の宿場町として栄えました。さらに、その街道と並行して流れる巴波川の舟運を…
あわせて読みたい
碓氷関所と坂本宿、中山道有数の難所・碓氷峠の麓の町を歩く【群馬・安中市】
江戸時代、中山道における有数の難所だった碓氷峠。その群馬県側の山麓には碓氷関所があり、そこでは通行手形にもとづき入鉄砲と出女が厳しく監視されました。その関所…
さらに「歴史」に関するスポットを探す
<a href=”//ck.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/referral?sid=3694017&pid=890454465″ rel=”nofollow noopener” target=”_blank”><img src=”//ad.jp.ap.valuecommerce.com/servlet/gifbanner?sid=3694017&pid=890454465″ border=”0″></a>
クラブツーリズムはバスツアーやテーマ旅行が充実!