赤山陣屋(赤山城)跡は、利根川を江戸に直接流れぬようにした利根川東遷事業など、大掛かりな治水工事で江戸の発展に貢献した伊奈氏の屋敷跡です。
屋敷を囲んでいた空堀や土塁が広範囲にわたり残っている屋敷跡を歩くと、自然の地形を上手く生かして造られていた陣屋だったことが体感できます。
途中に立ち寄った伊奈氏の菩提寺なども交えつつ、赤山陣屋の見どころを紹介します。
目次
「赤山陣屋跡」空堀が広範囲に残る伊奈氏の陣屋跡
イイナパーク川口(赤山歴史自然公園)からアクセス

今回、赤山陣屋跡へは埼玉高速鉄道で最寄りの新井宿駅にアクセスし、約2km弱の距離を徒歩で向かいました。
一旦、赤山陣屋跡にも近い「イイナパーク川口(赤山歴史自然公園)」に立ち寄り。
ここは2022年にできた新しい施設で、緑地公園をはじめ、川口市歴史自然資料館や物産館、さらには全天候型のあそび場なども入っている複合施設です。
また、高速道路を降りずにアクセスできる、首都高速道路では初のハイウェイオアシスという機能も持っています。もちろん一般道から入れる駐車場もありますよ。

歴史自然資料館も新しくて綺麗な建物でしたよ。
館内では周辺の歴史や自然に関する資料が展示されているので、ここで赤山陣屋跡の基本情報を入手しました。
伊奈忠治、治水事業で江戸の発展の貢献

歴史自然資料館前に立つ伊奈忠治の像
赤山陣屋を築陣したのは、伊奈忠次(ただつぐ)の子である伊奈忠治(ただはる)です。
父・伊奈忠次(1550-1610年)は、戦国時代から江戸時代初期にかけて徳川家康に仕えた武将で、代官頭(後の関東郡代)を務めました。
利根川東遷をはじめとする大規模な治水・利水工事、新田開発、検地の実施など、関東地方の民政や経済基盤の整備に多大な功績を残した人物です。
伊奈忠治(1592-1653年)は忠次の次男でしたが、兄・忠政の死後、元和4年(1618年)に代官頭の職を継ぎ、寛永19年(1642年)には関東郡代に任命されます。
利根川東遷をはじめとする父の事業を引き継いだほか、荒川や江戸川の開削なども手掛け、関東の治水工事・新田開発・河川改修に尽力しました。
利根川東遷事業とは?
当時、利根川は現在の東京湾(江戸湾)へと流れており、度重なる氾濫が江戸の発展を阻害しました。
これを、利根川の流路を東に変え、最終的に銚子から太平洋へ注ぐようにしたのが利根川東遷事業です。
伊奈忠次は会の川(現、埼玉県羽生市・加須市)を締め切り、利根川・荒川の分流や、関連する河川の改修をおこないました。
忠次の死後も伊奈忠治が事業を引き継ぎ、17世紀中頃までには現在の流路がほぼ完成します。
これにより江戸の洪水被害が軽減されたのに加え、関東平野の新田開発、水運網の整備による物流の発達などにつながり、経済発展に大きく寄与しました。
伊奈氏がおこなった治水事業は脚光を浴びる機会が少ないですが、現代の関東における暮らしにも直結している、凄い功績なんですよ!
自然の外堀と人工的な空堀で守られていた

資料館で予備知識を吸収したところで、いざ赤山陣屋跡へ。イイナパークから道なりに北へ向かいます。
南側から陣屋に入るには、当時もこの先にあった表御門が唯一の入口だったようです。

突きあたった先にあるクランク状の道を抜けると開けた場所が現れ、そこに赤山城址の碑が立っていました。この辺りが本丸(陣屋)の中心部だったようです。
伊奈忠治の父・忠次は、1万石の領地を得て小室(現、埼玉県伊奈町)に陣屋を構えました。
忠治の代になると赤山にも7千石の領土を受領し、寛永6年(1629年)頃に赤山陣屋を設けて拠点を移したとされます。
陣屋は寛政4年(1792年)の12代目・忠尊(ただたか)の改易により廃止になりますが、それまでの約160年もの間、赤山陣屋は伊奈氏の拠点として続きました。

赤山絵図、歴史自然資料館にて
陣屋の配置は、江戸時代の赤山絵図により知ることができます。これはちょっとした城下町の様相ですね!
その規模は、東西約1.6km・南北約1.7kmの広大な範囲に及ぶものでした。
陣屋全体を低湿地などによる自然の外堀が囲み、さらに本丸・二ノ丸の周囲には人工的な空堀が設けられ、二重の堀に囲まれていたのが特徴です。
本丸周辺には長い空堀跡が残る

現在は本丸跡を中心とした、一部のエリアが整備・保存されています。
各所には、このような地図入りの案内板が配置されているのが嬉しい。

本丸跡はかなり広いですね。
現在は空き地と雑木林、一部畑地が合わさった感じの空間で、屋敷跡だった痕跡はなさそうな感じ。

周囲には広範囲にわたり空堀が残っており、土塁も一部見られます。
こちらは本丸南側の空堀で、本丸から二ノ丸の西側方面まで続くものです。

陣屋内の空堀の深さはおおむね5~6mで、上面幅は9.5m程だったそうです。現在は埋められて浅くなっています。
当時は堀沿いに土塁が設けられたり、堀の内部に塀が設けられた箇所もあったとのこと。
空堀と並行して、整備されて歩きやすい散策路があります。ベンチも設けられていました。

現在はピンク色の陣屋にいますが、東・北・西の周辺をぐるっとめぐってみます。
「赤山日枝神社」伊奈氏が山王日枝神社を勧請

まずは本陣の東側にあり、伊奈氏が創建したといわれている「赤山日枝神社」へ。
山王三社を祀るこちらは、江戸城鎮護の山王日枝神社から分祀されたと考えられています。
\ 山王日枝神社の詳細についてはこちら!/

現在は日枝神社・天神社・八幡神社の三社が合祀されていますが、元々はそれぞれ鳥居をかまえた別棟で、陣屋内に広範囲にわたる境内を持っていたようです。
ちなみに社殿のある高台は、空堀を掘削した際の廃土で築かれたとのこと。

境内に残る宝永4年(1707年)に伊奈氏7代目・忠順が立てた石祠
神社関連の話というと、伊奈忠治には武蔵一宮氷川神社(さいたま市)に絡む功績があります。
その長さは日本一といわれる氷川神社の参道ですが、これが江戸時代初期までは一部中山道と供用されていたんですね。
これが「参道を街道とすることは恐れ多い!」ということで、寛永5年(1628年)に参道西側に新たに道を開削し、中山道の付替えがおこなわれました。この工事を指揮したのが、実は伊奈忠治なんですね。
宿や家屋も新中山道沿いに移転され、これがのちに宿場町・大宮宿に発展。
大宮宿は現在の大宮の町割りにも繋がっていることから、伊奈忠治は大宮の町の祖とも言われています。
このことはあまり知られていないんじゃないですかね?

神社隣には遊具などもある山王公園があります。公園内にはトイレもあり、公園の向かいには見学者用の駐車場も完備。
ここが赤山陣屋跡の見学には一番便利な駐車なんですが、入口が少しわかりづらいのが難点か。
赤山陣屋跡の東側を通っている県道161号線に、あまり目立たない入口があります。
ちなみに、本日入って来た本丸側から車で入った場合はこちらには抜けられず、かつ、道も細くて焦せるのでご注意を(経験者は語る、苦笑)。

日枝神社近くには、本丸と日枝神社エリアを区切る形の東堀が残っています。

交差する配置の南堀は、先程の本丸向かいにあった堀までず~っと続いています。
本丸と出丸の間には水堀と空堀があった

赤山日枝神社から北に向かいます。
本丸の背後は出丸と呼ばれる曲輪と、その周囲の自然低湿地の水堀によって守られていました。
境目の本丸側にも北堀と呼ばれる空堀があり、出丸から本丸側へ侵入する場合は、外堀と空堀を越えないと入れない造りでした。
かつて外堀があった辺りには、現在は東京外環道路が通っています。

北堀に沿って南側へ。登り坂になっており、敷地内に結構起伏があることを実感します。
ちなみに、伊奈忠治が受領した当時の赤山は広大な未開の地で、それを自ら開拓して陣屋を設けたらしいですよ。

登った場所には平地があり、そこに御陣山稲荷の小さな祠がありました。
陣屋の北東部にあたるここは鬼門の方向となり、その守り神として祀られているとのこと。

この辺りは堀底歩きが楽しめますが、すぐ先で北堀は終わっていました。
二ノ丸には家老の屋敷が置かれた

本丸側に戻り、本丸西側にある二ノ丸周辺を歩きます。
こちらは本丸と二ノ丸間にある西堀です。

西堀は深めに掘られていたとのこと。
これは周辺に、北側にあった低湿地のような自然の要害が無かったから、ということなんでしょうね。

このあたりが二ノ丸の跡。
赤山絵図によると、二ノ丸には家老・富田氏の屋敷が置かれていたようだ。

西堀に沿って北に進むと、下り坂となって出丸方向につながっていました。
再び出丸が低地にあったことを実感したところで、赤山陣屋跡めぐりを終了します。
「源長寺」伊奈忠治が再興した伊奈家の菩提寺

帰りに、近隣にある伊奈家の菩提寺「源長寺」に立ち寄りました。
源長寺は、元和4年(1618年)に伊奈忠治によって再興された寺院とのこと。

こちらには伊奈忠次・伊奈忠治をはじめ、伊奈家歴代の五輪塔があります。
伊奈忠次・伊奈忠治の墓は埼玉県鴻巣市の勝願寺にあるので、こちらは供養塔ということになるのでしょう。合掌。
関東周辺の山城攻めをトレッキング視点でまとめた、ありそうでなかったタイプの城攻め本。
これから山城歩きをする人は、東京都にもタフな山城があったりするのには超驚くと思いますよ!
明治時代の初めにはまだこれだけ様々な城が残されていたんですね。
貴重な写真の数々に思わず釘付け!
赤山陣屋跡(赤山城跡)の詳細情報・アクセス
赤山陣屋跡(赤山城跡)
住所:埼玉県川口市赤山字陣屋敷(GoogleMapで開く)
トイレ:山王公園の中にあります(専用駐車場向かい)
アクセス:
電車)
・埼玉高速鉄道「戸塚安行駅」又は「新井宿駅」から徒歩約20分
・JR京浜東北線「西川口駅」から国際興業バスの鳩ヶ谷行き乗車、「曲輪」バス停下車、徒歩約5分
・ JR武蔵野線「東川口駅」から国際興業バスの鳩ヶ谷行きに乗り、「曲輪」バス停下車、徒歩約5分
車)
・東京外環自動車道「川口東IC」から約5分
・首都高速川口線「新井宿IC」から約10分
・駐車場あり(約10台)、県道161号の植木屋・しばみち横の赤山城趾入口の石柱が立つ細い道を入った先。
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川口の気軽な城跡歩きに出かけませんか?
近年台風が大型化してますが、現在の我々の生活も伊奈氏の治水工事の恩恵をうけてるんだろうなぁ、なんて天気予報を見ながらふっと思ったりする今日この頃です。
赤山陣屋跡はつぶさに見てまわると、意外と歩きごたえがありました。
それと、思っていた以上に屋敷跡の痕跡を体感できましたよ。
そんな、赤山陣屋跡を歩いてみませんか?
記事の訪問日:2023/7/17




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