江戸日本橋から2番目の日光街道の宿場町「草加宿」は、日光街道の中では比較的規模の大きな宿場町でした。旧街道を歩き、かつての草加宿の面影を探しながら宿場の歴史をたどります。
また草加は、松尾芭蕉がおくのほそ道紀行で歩みを残した地でもあった。
かつて芭蕉が歩いた道でもある綾瀬川沿いには、江戸時代の松並木の街道「草加松原」が再現されており国名勝地に指定されています。
目次
「旧草加宿」 旧日光街道沿いの宿場町跡を歩く
江戸から2番目の日光街道の宿場町
江戸時代の五街道のひとつである日光街道は、江戸日本橋から徳川家康公を祀る日光山東照宮への主要道路として整備された、全長約142kmに及ぶ街道です。
草加宿は日光街道としては江戸から2番目の宿場町です。
日本橋を出て千住宿を過ぎると、次の宿場町からは現在の埼玉県域に入り草加宿・越ヶ谷宿・粕壁宿・杉戸宿・幸手宿・栗橋宿と続きました。
草加宿は日光街道の宿場町の中でも、比較的大きな規模の宿場町でした。
1つ先の粕壁宿の記事はこちら!
草加せんべいで有名な草加市

草加駅東口駅前
草加市は埼玉県東部に位置しており、東京都足立区に隣接しています。都内にも近いことから、県内6位の人口を有する市です。
草加訪問は初めてしたが、東武線の草加駅前には商業ビルがドンと建っており、利便性が良さそうな雰囲気がありますね。

草加市のイメージは?と聞かれれば、やはり「草加せんべいで有名」と答えますね。
本日も駅前のベンチに誰か座っているなと思って見てみたら、せんべいを頬張る女の子の像だった!
やはりイメージ通りか、という感じのスタートでしたが(笑)、本日はせんべい以外の草加の魅力を色々と吸収してゆきますよ。
草加宿は千住・越ヶ谷の間の宿として成立

最盛期の草加宿の1/1000のジオラマ模型
左)江戸方面・右)日光方面(草加市立歴史民俗資料館)
草加宿が成立する前の日光街道は、日本橋を出て最初の千住宿を過ぎると、次の宿場町は現・埼玉県の越ヶ谷宿でした。
草加宿の成り立ち
■当時の千住宿と越ヶ谷宿間には沼地が多く、大きく迂回する必要がありました。
慶長11年(1606年)、これを大川図書(ずしょ)という人物が沼を埋め立てし、真っ直な新道を開発。これが草加宿の基となっています。
■元和2年(1616年)に徳川家康が没し、翌年に久能山から日光山へ改葬されます。それに伴い日光参詣などにより交通量が増加したため、千住宿・越ヶ谷宿の中間に宿駅設置願いが出されます。
■寛永7年(1630年)、”千住・越ヶ谷間の間の宿”として、九か村組合宿による草加宿が誕生。幕府の伝馬制度の公認により、日光街道第2の宿駅が誕生しました。
日光街道沿いに1.5km続いた宿場町

草加駅東口から真っすぐ5分程歩くと、かつて草加宿があった旧日光街道にぶつかります。
宿場の起点は500mほど南(江戸方面)にある現在の草加市役所前で、そこから約1.5kmにわたり宿場町が続いていました。
旧街道を歩きだすと目に入ってくる古い建物が、こちらの「藤城家」です。
通りに面した2階建ての商家造りの店舗部分は、昭和初期の建物。張り出した庇が特徴的な1階部分には、土間と畳敷きのある帳場となっている。2階は畳敷きの座敷とのこと。

後方には母屋と繋がった土蔵造りの内蔵が続き、その横には明治初期建造の外蔵が並ぶ。
藤城家は宿場町の面影を伝える建造物として、国有形文化財に登録されています。建物は現在も使用されており、内部の見学はできませんでした。
草加宿は千住、越ヶ谷、幸手に次ぐ規模へと発展

開宿当時、草加宿の戸数は84戸で旅籠屋は5~6軒程度、伝馬人足25人・駅馬25頭の小規模な宿場町でした。数軒店舗があった他は、すべて農家だったといいます。
後の天保14年(1843年)頃の調査によると、本陣・脇本陣各1軒、旅籠屋67軒 (大2・中30・小35)、民家は723軒で人口は3,619人。人馬の数もこの頃になると、伝馬人足50人・駅馬50頭でした。
この規模は城下町(宇都宮・古河など)を除けば、日光街道では千住・越ヶ谷・幸手に次ぐものでした。
目覚ましい発展を見せましたね!
そんな宿場町のちょうど中間地点には、2つの本陣の跡碑が立っています。
「大川本陣」は、宝暦年間(1751年~1764年)に置かれた本陣。草加宿の祖とされる大川図書の家系によって営まれた本陣でした。

道を挟んで立つのは、宝暦年間~明治時代まで本陣を担った「清水本陣」の跡碑です。
草加宿は参勤交代における道中の宿泊地として、東北諸藩の大名が多く立ち寄りました。
両本陣には多くの大名が宿泊しており、会津藩の松平容頌(かたのぶ)、仙台藩の伊達綱村(つなむら)、盛岡藩の南部利視(としみ)、米沢藩の上杉治憲(はるのり)などの宿泊記録が残ります。
残念ながら、本陣をはじめ草加宿にあった江戸時代の建物はほとんど残っていません。
明治3年(1870年)に発生した大火で宿内の85%が被災を受け、450軒程の家屋が焼失しています。

本陣跡碑の近くには、茶屋風の休憩所のある「おせん茶屋公園」がありました。
本陣と共に、この近くには人馬継ぎ立て業務をおこなう「問屋場」などもあり、かつての宿場の中心部だったといえます。
公園がある場所は、明治時代以降に草加警察署や町役場などが建っていた跡地とのこと。
「東福寺」草加宿の祖・大川図書が創建

おせん茶屋公園から南の路地に進むと、少し奥まった場所に「東福寺」がある。
大川図書が慶長11年(1606年)に創建した寺で、境内には大川図書の墓があります。

東福寺には江戸時代後期に建てられた本堂・山門・鐘楼が残っており、それぞれ市の有形文化財に指定されている。ここは大火を免れたようですね!
元治2年(1865年)の銘が残る門の彫刻は、柔らかい繊細なタッチのもので見応えがあります。

大川図書は戦国時代には土本氏を名乗り、小田原北条氏(後北条氏)に仕えた武士だった。
豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅んだ後は浪人となり、岩槻城主・太田備中守のもとにいたりもした。
やがて草加の松江(草加宿より東側の綾瀬川沿いの地域)近辺に移り住み、草加宿や東福寺の建設に尽力するに至ります。

鐘楼もなかなか手が込んだ造りで、木鼻をはじめ凝った彫刻が施されている。
こちらも文久2年(1862年)の刻銘が残っており、時代が明記された建造物として貴重です。
「神明宮」草加宿の総鎮守

再び旧日光街道に戻る。県道との合流地点手前の「新明宮」が現れると、ここらが草加宿の北側の終点です。
新明宮は元和元年(1615年)創建の神社で、正徳3年(1713年)に宿の総鎮守として現在地に移転されてきました。
せんべい屋の手焼き体験も楽しめる!

で、道中に草加せんべいの店はあったかって?
はい、旧日光街道沿いとその周辺には、やはり名物のせんべい屋が沢山あります!せんべいの手焼きができる、体験型の店もあったりした。
「おくのほそ道の風景地 草加松原」 名勝地で街道風情を楽しむ
「おせん公園」と河合曾良の像

「草加せんべい発祥の地」の石碑
新明宮の先に、「草加せんべい発祥の地」の碑が立つ「おせん公園」なる公園が出現!
石碑が”せんべい形”なのはすぐ分かったが、背後の棒状の碑はせんべいを焼く箸の形ですか。こちらはちょっとマニアックで分かりませんでした(苦笑)。
草加せんべいのルーツに関する解説がありますね。どれどれ。。。
草加せんべいの起源
日光街道の草加松原にあった茶屋では、おせんさんが作る団子が評判だった。
おせんさんは団子が残ると捨てていたが、それを見た侍が「つぶして乾かし、焼餅として売っては?」と提案。おせんさんがそれを作り売りだしたところ大評判で、日光街道の名物となった。
なるほど。
色々素朴な疑問も湧いてはきますが。。。、保存が効く食べ物として街道沿いで人気になったようですね。

おせん公園の向かいには、おくのほそ道紀行の旅路を松尾芭蕉と共にした、門人「河合曾良(かわいそら)」の像がありました。
どうやら先を行く芭蕉に、何か声を掛けしているようにも見えます。では、その先にいる芭蕉を探しに行ってみますか。
「札場河岸公園」 江戸時代の舟運河岸を再現
綾瀬川の舟運の拠点だった「札場河岸」

草加での散策は旧宿場町歩きのほか、綾瀬川沿いに整備されている「おくのほそ道の風景地 草加松原」がもう一つの見どころです。
おせん公園から県道を隔てた「札場河岸(ふだばかし)公園」は、その草加松原の入口にあたります。雰囲気のある橋が、なかなかレトロで良い感じですよ。

札場河岸公園は、江戸時代の船着き場を再現した公園です。
かつて綾瀬川は草加と江戸をむすぶ重要な運河とされ、多くの舟が行き交っていました。
札場河岸と綾瀬川の舟運
札場河岸は野口甚左衛門家の私河岸で、元々は甚左衛門河岸と呼ばれていた。
野口甚左衛門は”おせん公園”の辺りに住んでいましたが、その辺りには高札場が設置されていたため「札場」の屋号で呼ばれるようになった。
江戸時代中期以降の草加・越谷・粕壁などの綾瀬川の流域各所には、穀物等の集散地となる河岸が設置され舟運が発達しました。
螺旋式階段式の「望楼」と「甚左衛門堰」

公園のランドマークとなっているのが、こちらの五角形の立派な望楼(ぼうろう)です。建物は平成になって建てられたもの。

それでもってこの建物、けっこう凝った造りなんですね。
埼玉県産のスギ・ヒノキを建築材に使用し、螺旋式になっている階段に「おおっ!」と唸らされます。建物物内部は9時~17時まで見学が可。

高さ約11mの頂上階からの展望。川沿いは桜並木になっているので、桜の季節には絶景が拝めそうだ。

公園一角にある「甚左衛門堰(じんざえもんぜき)」は県指定文化財。
綾瀬川と伝右川の間で用水量を調整する役割だった施設で、明治27年(1894年)から昭和58年(1983年)までの約90年間にわたり使用されたそうです。
札場河岸公園は、江戸時代と明治時代の河川史跡が共存するスポットでした。
おくのほそ道紀行で草加に立ち寄った松尾芭蕉

そして公園北側に、先程の河合曾良像の方向を振り返っている松尾芭蕉像が立っていました。
元禄2年(1689年)、松尾芭蕉は弟子の河合曾良とともに「おくのほそ道」の旅に出ます。
江戸深川から舟で千住宿へ渡り日光街道を北上しましたが、この先の粕壁宿(現、埼玉県春日部)に向かう途中に草加の地に歩みを残しています。
像は「おくのほそ道」旅立ち300年を記念して、昭和64年(1989年)に市民有志によって製作されたもの。
松尾芭蕉「おくの細道紀行」について
松尾芭蕉の「おくの細道」の旅は、江戸から東北・北陸を経て岐阜・大垣へ至る約150日間・距離約6百里(約2千4百km)に及ぶ長旅でした。
日光街道を進んで日光を訪れた後、那須・白河の関を経て東北地方へと向かいました。
「おくの細道」は芭蕉の紀行文としては最も長編、かつ内容的にも生涯の総決算的な意義を持つ作品とされます。
「国名勝地・草加松原」 江戸時代の松並木の街道を再現

矢立橋から
札場河岸公園の先の綾瀬川岸沿いには、「草加松原」と呼ばれる松並木が約1.5kmにわたり続いています。 これは江戸時代より日光街道の名所として知られた、松原を再現したもの。
この並木道は「おくのほそ道の風景地 草加松原」として、国の名勝にも指定されているんですよ。
三保の松原をはじめ著名な松原は海辺にあるイメージですが、海なし県の埼玉にもこんな風光明媚な松原があったんですね!
「矢立橋」 和風の太鼓橋が風情を感じさせる

矢立橋
草加松原でアクセントになっているのが、2つの大きな太鼓橋。コンクリート製の橋ですが、木造風のデザインは雰囲気たっぷりです。
こちらの橋名は「矢立橋(やたてばし)」で、芭蕉のおくのほそ道の句からとられています。
東京スカイツリーの高さにちなむ634本の松並木

百体橋
「月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり」
もう一つの太鼓橋「百体橋」の名も、おくのほそ道のこの有名な句から命名されています。

この松並木ですが、実は江戸時代から残っているものではないです。
明治時代に806本あった松は、戦後になると車の排気ガスや道路舗装で本数が減少。
現在の松並木は、平成24年(2012年)に地元関係者や市・埼玉県の整備による努力で復活されたもの。東京スカイツリーの高さにちなむ、634本の松並木が植えられています。
植林する本数をスカイツリーの高さに合わせるというのも、東武鉄道沿線の街ならではだ。

松尾芭蕉文学碑
「松尾芭蕉文学碑」が百代橋のたもとにあるなど、草加松原も松尾芭蕉をテーマに整備されています。
歴史と自然が感じられる、気持ちの良い散策路でした!
日光街道や奥州街道を歩いてみませんか?
持ちやすさや見やすさを考慮した、ハンディサイズがありがたいガイドブック。
「草加宿神明庵」 御宿場印の販売もある無料休憩所

新明宮の少し手前には、無料休憩所を兼ねた観光案内所「草加宿神明庵」があります。
施設に使用している建物は江戸末期の町家建築をリノベーションしたものなので、建物としても一見案の価値ありです。

市民ボランティアの方々によって運営されている、アットホームな雰囲気の施設でした。お茶をごちそうになり、ちょっと一息。 2階はギャラリーになっています。

訪問した少し後日に、日光街道の旧宿場町で「御宿場印」の販売が始まりました。
草加宿の御宿場印は神明庵で販売されているので、再訪問して購入。1枚300円ナリ。
訪問の記念となる御宿場印の販売で、宿場町歩きがさらに楽しくなってきますね!
\ 日光街道の御宿場印の詳細については、こちらの記事へ!/
無料休憩所 草加宿神明庵
公式ページ
住所:埼玉県草加市神明1-6-14(GoogleMapで開く)
営業時間:11時~16時
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日が休館)、年末年始
草加宿街歩きマップ・ 草加へのアクセス

宿場町歩きマップ(日光街道埼玉六宿まち歩きパンフより抜粋)
草加へのアクセス
電車)*最寄り駅は東武「浅草駅」
・東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)「浅草駅」から「草加駅」まで約25分
・東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)・東京メトロ日比谷線「上野駅」から「草加駅」まで約25分
車)
・首都高速「八潮南IC」から草加市街まで約5キロ
・東京外環自動車道「草加IC」から草加市街まで約3キロ
草加ランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
\ 草加せんべいはもちろん!他にも日用品が充実しているみたい!/
周辺おすすめスポット(歴史民俗資料館ほか)
草加市歴史民俗資料館

草加駅近くにある歴史民俗資料館は、国登録有形文化財指定の大正時代の建物を見るだけでも価値あり。
資料館には草加宿の復元模型などもあり、草加宿を知るのに興味深い。
草加市歴史民俗資料館
案内ページ
住所:埼玉県草加市住吉1-11-29(GoogleMapで開く)
入場料:無料
開館時間:9:00~16:30
休館日:月曜日(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日~1月3日)
草加神社
草加宿とも関りが深い草加総鎮守。静かな境内で落ち着いて参拝出来ます。
季節感のある御朱印が人気。
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草加神社
住所:埼玉県草加市氷川町2118-2(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・東武スカイツリーライン(東武伊勢崎線)「草加駅」西口より徒歩5分
車)
・外環自動車道「草加IC」10分
・首都高速川口線「新郷IC」より15分
・駐車場完備(15台分)
蔵カフェ 中屋

150年前の染料問屋の倉庫だった蔵を、リノベーションして営業している人気のカフェ・レストラン。
草加宿歩きの際にも立ち寄りやすい場所にあり、雰囲気もバッチリ。
蔵カフェ 中屋
公式ページ
住所:埼玉県草加市住吉1-1-1(GoogleMapで開く)
営業時間・営業日:ランチ&カフェ:11時〜18時(定休日:月・火曜日)・ディナー:18時~22時(水~土曜日)
日光街道 旧越ヶ谷宿歩き
宿場町としての規模は千住宿に次ぐ大きさで、現在も古い建物が多く残る旧街道を歩くとその面影を感じさせます。
また、リノベーションされて利用されている古民家が結構多いのも特徴です。
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旧草加宿を歩きに出かけませんか?
正直古い建物はそれ程残ってはいないのですが、草加松原の風景も楽しみつつ楽しく歴史散策ができました。
せんべい好きなんで、勿論せんべいも買ってきましたよ、はい。買ったのは「キリンビールの一番搾りビールに一番あう煎餅」というネーミングのキリンと草加せんべいのコラボ商品。
いつもは発泡酒ですが、この日は当然キリン一番搾りとともに頂きました。美味しかった!
宿場町・草加に歩きに出かけてみませんか?
記事の訪問日:2021/2/28(一部、2021/6/30)




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