江戸から日光東照宮へ向かう日光街道。その数ある宿場町の中で、唯一関所が置かれたのが「栗橋宿」です。
利根川の渡しを押さえる交通の要衝として、参勤交代や徳川将軍の日光社参、朝廷の例幣使など数多くの歴史的行列が往来しました。
本記事では、実際に旧街道を歩きながら、関所跡や本陣ゆかりの寺、総鎮守などを巡り、栗橋宿の歴史をたどります。
目次
「栗橋宿」日光街道の7番目の宿場町を歴史散策
日光街道は江戸時代に整備された五街道のひとつで、江戸日本橋から徳川家康公を祀る日光山東照宮への主要道路として整備された、全長約142kmに及ぶ街道です。
日本橋を出て千住宿を過ぎると、次の宿場町からは現在の埼玉県域に入り、草加宿・越ヶ谷宿・粕壁宿・杉戸宿・幸手宿・栗橋宿と続く県内では6番目の宿場町、日光街道としては7番目の宿場町となります。
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静御前の墓|源義経の内妻・静御前が尽きた地
JR栗橋駅から栗橋宿のあった旧日光街道までは、約1km程離れています。そぞろ歩くには良い距離なので、本日はのんびりと歩いてみました。

栗橋駅西口から程近い場所に、神社?のような雰囲気を持つ広場がありますが、ここは源義経の愛妾だった「静御前(しずかごぜん)の墓」と伝わる場所です。
源義経は鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の異母弟にあたりますが、その義経が見染めたのが舞の名手であった静御前。静御前の舞は、後白河院より「日本一」の宣旨を受けたともいわれています。

こうした伝承が栗橋に残る背景として、中世の主要道であった鎌倉街道の「奥大道」が通っていたことが挙げられます。
奥大道は鎌倉と奥州を結ぶ幹線道として機能し、後世には奥州方面へ向かう街道へと発展。江戸時代には日光街道の整備へとつながってゆく。
静御前の伝承は、栗橋が古くから東国と奥州を結ぶ交通の要衝だったことを物語っています。
宝治戸池| 江戸時代の寛保の大洪が残した大きな池
住宅街の中に「宝治戸池(ほうじどいけ)」と呼ばれる大きな池が現れました。

貯水池にしては随分デカイな、と思ったら、これ、江戸時代に浅間川の氾濫でできた池なんですって。
*浅間川:利根川の分流で現在は廃川
寛保2年の洪水
寛保2年(1742年)に「寛保2年の洪水」と呼ばれる、関東地方を中心とした江戸時代屈指の大水害が発生した。
長期間の豪雨と台風の影響で利根川・荒川・渡良瀬川などが氾濫。広範囲にわたり堤防が決壊し、家屋の流失や死者多数の深刻な被害に繋がった。
この災害は、幕府が利根川の改修や堤防強化などの治水対策を進める契機となりました。
江戸時代の痕跡が現在も残っているなんて、当時の洪水の凄まじさが伝わってきますよね。
蛇足ですが、この池、出所はよく分からんのですが、昔から「金の延べ棒が池底に沈んでいる」と言われているそうだ。
一度潜水夫により調査がおこなわれており、その際には何も発見されなかったとのことですが、なんだかミステリアスなロマンを感じさせる池でした。
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栗橋宿とは?日光街道唯一の関所が置かれた宿場町
関東代官・伊奈忠次指揮のもと整備された栗橋宿
日光街道の道筋の多くを国道4号線が踏襲していますが、宿場町があったような町中部分に関しては、道幅の関係等で旧街道筋のまま残されている場合も多い。
かつて栗橋宿があった道筋も、国道から外れた旧街道として残っています。

栗橋宿のあった旧日光街道の街並み
栗橋宿の成立ちですが、この場所にあった町が宿場町に発展した、というわけでは実はないんですね。
栗橋宿の成立
元々の栗橋の町は川を隔てた、現在の茨城県五霞町(当時は下総国栗橋)側にあった。
しかし江戸時代初頭、利根川の付替え工事に起因する大洪水に見舞われ、村民は現在の栗橋の地に移住します。
移住者であった池田鴨之介と並木五郎平の両名が責任者となり、関東代官・伊奈忠次の指揮のもと、現在の栗橋側に新しい町を開発。
関所の設置に合わせて正式に宿場が成立した後は、池田家は本陣役を、並木家は脇本陣役を代々担いました。
利根川と密接に関わってきた地域であることが、創設経緯からもひしひしと感じられます。
伊奈氏による利根川東遷事業とは?
徳川家康は江戸の治水と利便性向上を目的に、大規模な河川改修事業をおこないます。
その中核を担ったのが、関東代官・伊奈忠次(ただつぐ)を中心に進められた利根川東遷(とうせん)事業です。
これは利根川の流路を東へ変え、最終的に銚子から太平洋へ注ぐようにするという壮大なもの。工事には利根川・荒川の分流、さらに小貝川や渡良瀬川の改修も含まれました。
事業は忠次の死後も子の伊奈忠治に引き継がれて続き、約60年の歳月をかけ17世紀中頃までに現在の流路がほぼ完成しました。
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「栗橋宿」最大の特徴は利根川の房川渡しと関所の設置
栗橋宿はこの先の利根川を越えために通過が必要な、日光街道唯一の関所があった交通の要衝でした。

利根川通堤外家作御糺ニ付取調絵図面
上記は栗橋駅西口に架けられている、江戸時代の天保期(1830~1844年)の絵図。
中央部全体に栗橋宿が描かれており、その河岸側周囲を堤防が囲み、堤防を越えた外側の右下部分には関所も描かれています。
さらに川中には、関所周辺を中心に、無数の黒っぽいモノが描かれていますよね?
これは「土出し」と呼ばれるもので、川の氾濫時に関所が流されぬよう、杭で囲み水流を弱めるという当時の土木技術でした。
栗橋宿の輸送業務は中田宿との合宿でおこなわれた

かつてはこの道の両側に、通り側から奥に長い、短冊状に家割りされた家屋がずっと並んでいました。
栗橋宿の概要
■長さ:南北に約1.1km
■家数:404軒
■人口:1,741人
■宿:本陣・脇本陣のほかに旅籠屋が25軒
■常備人馬:人足25人・馬25疋(ひき)
*天保14年(1843年)頃の記録
規模的には、埼玉県内にあった日光街道の宿場町の中でも、杉戸宿に次ぐ小さい宿場でした。
輸送業務(伝馬)においては、利根川を挟んだ中田(なかた)宿との合宿でおこなわれていたのが特徴です。
本陣・脇本陣、そして人馬手配の窓口となる問屋場などの宿場の中心となる機能は、宿場町の北側(日光方面寄り)にありました。
1・6の付く日には六斎市が開かれ、周辺で収穫された五穀、野菜や藍のほか、宿場内でおこなわれていた藁細工や機織りによる産物も商われていたようです。

街道沿いの面影を残す小林畳屋
ところで、関所があるような交通の要衝にありながら、宿場の規模が小さかったというのはちょっと不思議ですよね。
その背景には、以下の3つの理由があったのではないかと思われます。
■関所周辺の治安維持や通行規制のため、宿場町の拡大が抑えられたこと。
■そもそも利根川の頻繁な氾濫による治水上の制約から、住居・店舗の敷地確保が難しかったこと。
■上記により、手前の幸手宿などで宿泊を済ませる旅人が多かったこと。
一番の理由は、やはり地理的な制約があった部分じゃないかなあ。

宿場町当時の面影を感じさせるような古い建物は、数的にはそれ程多くはありませんでした。
顕正寺|栗橋宿で本陣役を務めた池田家ゆかりの寺院

旧宿場町の中程にある「顕正寺(けんしょうじ) 」は、宿場の歴史と関わりのある寺院なので、立寄ってみたいスポットです。
元々は茨城県中田側にありましたが、栗橋宿整備の中心人物の一人だった池田鴨之介が、この地に招請しました。鎌倉時代の創建とされる歴史のある寺院です。
境内には池田鴨之介の墓があり、栗橋の発展と深く関わった人物の墓として、久喜市指定史跡となっています。
徳川将軍・参勤交代・例幣使──栗橋宿を通った三つの大行列
宿場跡のちょうど中間辺りに、宿場町の面影を感じさせる家屋を発見!

正面に木造家屋があり、その奥に石蔵の古い造りの建物が続く。
基本的に宿場税が正面の間口幅で決められていたため、宿場町ではこのような短冊状の地割りが多く見られました。
そして、この横を通っている細い道は、日光御廻道(にっこうおまわりみち)と呼ばれていたらしい。えっ?日光御成道は聞いたことがあるが、御廻道は初耳だな。
これは徳川将軍の日光社参において、幸手宿側にある権現堂川(ごんげんどうがわ)が万が一洪水を起こした際の、緊急対応用の迂回ルートとして用意された道なんですって。へえ~、って感じ。
江戸時代末期には将軍の日光社参の回数自体が減ったこともあり、結局一度も使われなかった幻の将軍ロードでした。

かつて、栗橋宿を3つの大行列が通ってゆきました。
大名による参勤交代の行列、徳川将軍の日光社参の行列、そして日光例幣使(れいへいし)と呼ばれる朝廷使者の行列です。
日光例幣使は日光東照宮に朝廷の捧げものを奉納する勅使で、221年間一度も中断することなく派遣されたそうなんですよ。
京の都を出た後、中山道・日光街道・その先の例幣使街道を経由して日光に至りました。
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「栗橋関所跡」日光街道唯一の関所はどのようなものだった?
栗橋関所跡碑|江戸時代の正式名は”房川渡中田御関所”
l旧宿場町の北側にあるはずの「栗橋関所跡碑」を探しますが、しばし見つからずウロウロ。。。複雑な町割りではないので、迷うはずはないんですが。。。

はい。こんな感じの空き地の奥に、ポツンとある石碑を発見しました。
利根川の堤防沿いに石碑があるイメージで探してましたが、河川工事の関係でこちらに移動されたようですね。

栗橋関所跡石碑は大正時代に造られたもの。
天正18年(1590年)に関東に入国した徳川家康は、江戸を外敵から守るために街道筋の要衝に関所を設けます。
栗橋関所もその一つで、利根川を渡る房川渡し(ぼうせんわたし)とともに、日光街道唯一の関所が設置されました。
日光街道は利根川対岸の中田宿方面(現、茨城県側)へと続きますが、利根川には橋が架かっておらず、唯一の進行手段が渡し船だったんですね。
栗橋関所と呼ばれることが多い関所ですが、対岸へと結ぶ渡船場とともにあったため、その正式名称は「房川渡中田関所」でした。
「入り鉄砲に出女」とは?関所最大の役割を解説

久喜市立郷土資料館にある栗橋関所復元模型
実際のところ、栗橋関所はどんな所だったのでしょう?
残念ながら建物は残っていませんが、久喜市郷土博物館では模型によって関所が再現されています。
房川渡中田関所における取締りの実態
■関所は利根川河畔にある堤防の河川側にあり、番士4人が置かれていた。
■夜明けは明け六つ頃(=午前6時頃)に開門して、日暮れは暮れ六つ頃(=午後6時頃)に閉門。
■旅人は名主が発行する「関所手形」を提出。関所側に事前に名主から提出されている「印影」と一致すれば、通過が認めた。武士の手形は、幕府・大名が発行した。
■江戸の屋敷に暮らす地方の大名の妻子が旅する「出女」に関しては、ことさら厳しく監視され、幕府が発行の関所手形(女手形)の所持が義務付けられた。
庶民の女性も同様に、身元・行き先・旅の目的などが記載された女手形が必要だった。それらを取り調べする専任の女性(人見女)もいた。
■江戸に住む大名の反乱を防ぐために、江戸への「入り鉄砲」にも厳しく、幕府・大名の発行する「鉄砲手形」が必要だった。
上記のように、関所では特に「入り鉄砲に出女」が厳しく取り締まられました。
手形を持っておらず、関所を避けて別な道を通行した場合は、「関所破り」として厳しく罰せられました。
参勤交代制度について
江戸幕府が定めた諸大名に関する制定「武家諸法度」の中で、徳川3代将軍家光の時代に「参勤交代制度」が明文化された。
これにより、大名は1年おきに江戸に住むこと、大名の正室と世継ぎは江戸に居住すること、などが定められました。
関所で監視された「出女」は、大名の正室が勝手に江戸から逃げ出さないよう取り締まるものでした。
房川船橋|徳川将軍の日光社参の際に出現した、巨大な仮設の橋

現在の利根川には利根川橋が架かりますが、当時は防衛上の観点から橋が架けられませんでした。

栗橋宿の御宿場印紹介のチラシ
そんな利根川を天下の徳川将軍が渡る際、臨時の「房川船橋」が架けられた記録が残っています。
「日光御社参栗橋渡し船橋の図」には、天保14年(1843年)に徳川12代将軍・家慶一行がおこなった日光社参において、栗橋・中田間の房川渡しの利根川を渡っている様子が描かれています。
188間(約342m)の川幅に船を並べたその上に板を敷き、綱で川岸から固定して道のようにしたもの。
いやはや、さすがは将軍様の御成だけあって凄い事が考えられましたね。
日光社参について
日光社参は徳川家康公を祀る日光東照宮を将軍家が参拝する巡礼行事で、江戸時代を通じて合計19回実施された。
6名の徳川将軍が社参をしており、2代将軍秀忠が4回、3代将軍家光が10回、4代将軍家綱が2回、8代将軍吉宗が1回、10代将軍家治が1回、12代将軍家慶が1回となります。
八坂神社|珍しい狛鯉のいる栗橋の総鎮守で参拝
最後に宿場町の北側にある、栗橋宿の総鎮守「八坂神社」を参拝しました。

旧栗橋町を見下ろせる高台に鎮座していますが、実は利根川堤強化事業に伴い、令和3年(2021年)にこちらに移転したばかりなんですね。

境内には狛犬ならぬ、珍しい狛鯉(こまこい)がいるのも、川の町の鎮守さまであることを感じさせる。

八坂神社もやはり元々の所在は茨城県側で、宿場町とともに現在の栗橋に移転したもの。
宿場町の成立後は、栗橋宿の総鎮守として崇敬を受けてきました。

利根川は日本最大の流域面積を持つ河川ゆえ、この地域では首都圏の安全を確保するための、堤防の強化対策がおこなわれています。八坂神社の移築も、その一環のやむをえないものだったようだ。
眼下に見える更地が、以前の八坂神社の所在地。
この景観が、利根川の流れに抗えずに転々としてきた、八坂神社の歴史を物語っています。

周辺は関所や本陣をはじめ、宿場の関連遺跡が埋まっている可能性があるエリア。
対策工事と並行して、埋蔵文化財の発掘もおこなっている旨が案内板で説明されていました。
八坂神社
公式サイト
住所:埼玉県久喜市栗橋北2-15-1 (GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)「栗橋駅」東口より徒歩15分
車)国道125号線 利根川橋南詰大利根方面に進み左側坂下
【記事の参考にした情報】
・久喜市の歴史と文化財1[「日光道中栗橋宿・栗橋関所(PDF)」 久喜市教育委員会
日光街道や奥州街道を歩いてみませんか?
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栗橋宿の御宿場印

八坂神社では栗橋宿の御宿場印を販売しています。1枚300円でした。
販売所情報については下記をご参照。
「日光街道・日光西街道 御宿場印めぐり」 御宿場印プロジェクトのページ
\ 御宿場印や日光街道の埼玉六宿歩きの紹介はこちら!/
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栗橋へのアクセスと栗橋宿周辺の立寄りどころ
都心から栗橋へは約1時間でアクセス可
栗橋へのアクセス
電車)*最寄り駅はJR「栗橋駅」
・JR「上野駅」からJR宇都宮線乗車で「栗橋駅」まで約1時間
・JR「池物駅」からJR湘南新宿ライン乗車で「栗橋駅」まで約55分
・東武線「北千住駅」から「栗橋駅」まで急行利用で約50分(南栗橋駅で乗換えあり)
車)
・最寄りICは、東北自動車道「加須IC」、圏央道「五霞IC」「幸手IC」
栗橋周辺ランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
日光街道最大の難所・栗橋宿で江戸の歴史を体感しよう
栗橋宿は、宿場町というだけでなく、利根川の渡し・関所・将軍の日光社参という江戸幕府の交通政策を支えた重要な舞台でした。
往時の町並みは多く残っていませんが、旧街道を歩けば、関所や本陣、渡し場跡などから江戸時代の面影を感じられます。
幸手宿や杉戸宿とあわせて巡れば、日光街道の歴史をより立体的に楽しめるでしょう。
記事の訪問日:2021/7/17




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