「小田原城址公園」にはかつての天守閣や城門が本格的に復元されており、実に城らしい雰囲気が楽しめるスポットです。
水堀を越え門を抜けると枡形と呼ばれる形状や巨大な櫓門により、城内の堅牢な防御を体験しながら進むことができます。
そんな小田原城址公園を、城の歴史や構造などを紐解きながら歴史散歩します。
周辺の関連スポットの紹介もあります。
目次
『小田原城城址公園で歴史探索!』
小田原城址公園について
「小田原城址公園」は、小田原駅からは約1km程離れた位置にあります。
公園はかつて本丸・二の丸があったエリアが整備されたもの。
外観復元された天守閣や門を中心に、江戸末期の小田原城城郭が再現されています。
城跡は国指定史跡です。
園内には遊園地があったり、季節の花が楽しめるなど市民の憩いの場となっています。
特に春の桜は美しい景色を織りなす、桜の名所として賑わいます。
天守閣など一部施設は有料ですが、入園自体は無料。
歴史が詰まった公園を、気軽なお散歩コースとして歩ける地元の方々が羨ましいですねえ。
「小田原城と小田原北条氏」
駅から公園正面口に向かうと最初に出会うのは、堀と雰囲気のある学橋(まなびばし)。
学橋は昭和に造られた橋。
公園のシンボルの一つとして親しまれますが、元々は公園内にあった小学校への通学橋だったそうです。
学橋の先に見えてくるのは隅櫓。
小田原城の創始は、室町時代の大森氏の築城が始まりとされます。
戦国時代の16世紀初めに戦国大名・伊勢宗瑞(そうずい)(北条早雲)の進出により、小田原北条氏の居城となります。
その後、小田原城は小田原北条氏5代に渡り関東支配の拠点として続き、次第に拡張されてゆきました 。
*北条早雲:姓を伊勢から北条に改称したのは早雲の死後、嫡男・氏綱の代からだが、後世では一般に北条早雲の名で呼ばれる。
*小田原北条氏の呼び名について:本来の氏は北条。鎌倉幕府執権北条氏と区別するため小田原北条氏・後北条氏と呼ばれることが多いです。
天正18年(1590年)、天下統一の総仕上げに位置付けた豊臣秀吉軍による「小田原合戦」は歴史上良く知られます。
小田原北条氏の戦力約3万4千騎に対して、秀吉軍は21万騎とされる大軍で侵攻。
秀吉は小田原城を開城させ、小田原北条氏を大名として滅亡させました。
小田原北条氏はこの合戦に備え、掘と土塁で城下を囲郭した周囲9kmに及ぶ総構(そうがまえ)を構築。
これは小田原城の大きな特徴で、城址公園以外にも市内に多くの遺構が残っています。
小田原北条氏滅亡後は、徳川家康の家臣が城主となり城の近代化が進められました。
- <<築城から廃城までの概略年表>> *現地の説明看板による ■大森氏時代
- 1417年(応永24年):鎌倉公方足利持氏が大森氏に小田原を与える。
- ■北条氏時代
- 1500年(明応9年):伊勢宗瑞(北条早雲)、この頃までに小田原に進出。
- 1561年(永禄4年):長尾景虎(上杉謙信)、小田原城を攻め城下に放火。
- 1569年(永禄12年):武田信玄、小田原城を攻め城下に放火。
- 1590年(天正18年):豊臣秀吉、小田原に侵攻、北条氏直、総構で大軍を防ぎ、長期戦の末に開城。
- 徳川家康の家臣、大久保忠世が入城。
- ■北条氏滅亡後
- 1614年(慶長19年):大久保忠隣改易、小田原城破却。
- 1619年(元和5年):阿部正次が入城。
- 1632年(寛永9年):稲葉正勝が入城、近代化工事が進められる。
- 1633年(寛永10年):寛永地震により、小田原城、城下町に甚大な被害。
- 1675年(延宝3年):この頃、稲葉正則による小田原城近世化の改修が完了する。
- 1686年(貞享3年):大久保忠朝(忠隣の子孫)が入城。
- 1703年(元禄16年):元禄地震により、天守など崩壊・焼失。
- 1706年(宝永3年):天守再建。
- 1870年(明治3年):小田原城廃城、天守など売却され、解体される。
「馬出門」 枡形の正面口
こちらが城址公園の正面入口にあたる「馬出門(うまだしもん)」。
二の丸正面に位置するので、防御的にも重要な門ですね!
ちなみに、本来の正門であった大手門跡は、公園北東の街中にあります。
こちらは発掘調査を元に、石垣及び門と土塀が平成になって復元されたそうです。
では早速敵方になったつもりで、馬出門から勢いよく攻め込んでみます!
すると。。。前方行き止まりだ。
しかも、正面の塀には狭間と呼ばれる小窓があり、城内側から鉄砲や矢で狙い撃ちになりますね。
門の内側から振り返ったところ。
左手の門が入って来た馬出門で、右手が城内に繋がる内冠木門(うちかぶきもん)。
内冠木門に向かう前に、横からも狙われてましたなあ。。。
ここは2つの門の土塀で、周囲を四角く枡形で固められています。
枡形は、侵入者の前方や脇から狙い撃ちできる防御の造り。
この先々の門においても、この枡形が取り入れられています。
「馬屋曲輪」 将軍家光公の上洛時に整備
馬出門を抜けると、二の丸へ通じる住吉橋とその先の銅門(あかがねもん)が現れます。
城郭らしい雰囲気の景色ですね。
銅門へは「馬屋曲輪(くるわ)」を抜けて向かいます。
「馬屋曲輪」全景。
曲輪は城郭における区分・区画を指します。
この曲輪の地面がL字型に仕切られている場所には、馬屋の他「大腰掛」という建物があったそう。
大腰掛は登城者の待機所。
寛永11年(1634年)、徳川将軍家光公が上洛の際、小田原城を宿所にしたのに合わせて整備された施設だったそうです。
丸型の箇所は井戸跡。
こちらは、馬屋曲輪南東隅の「二重櫓(やぐら)の櫓台跡」。
寛永20年(1643年)に、ここに2階建ての二重櫓が建てられましたが、櫓は元禄16年(1703年)の地震で倒壊。
その後再建されましたが、明治時代に取り壊され櫓台も埋め立てられました。
平成21年(2009年)・平成22年(2010年)の発掘調査において、埋め立てられた櫓台石垣が現れたそう。
石を補填し積み直しの復元がされました。
「住吉橋・銅門」 二の丸入口の枡形門
>住吉橋を渡り「銅門(あかがねもん)」を抜けると、二の丸に入ります。
小田原城は「梯郭式平山城」と呼ばれる造り。
本丸を隅に置き、本丸を二の丸が、二の丸を三の丸が包み込む様な配置になっています。
*三の丸の場所は、現在は城址公園外の市街地にあたる。
では銅門を抜けて二の丸へ向かいます。
橋の先の一の門は内仕切門(うちじきりもん)と呼ばれます。
ところで、橋が架かる住吉堀からは小田原北条氏による「障子堀」(堀底に土を堀り残し障壁とする堀)が見つかっているそうです。
さらには江戸時代初期の障子堀や、自然石を使った野面(のづら)積みの石垣などが発見されてます。
隠れた部分にも、歴史が眠ってたんですなあ。
その辺も何とか見学できるようにならんものかなあ。
内仕切門を抜けると、ここも枡形門の構造となっています。
高い位置の狭間から鉄砲が狙ってそうですねえ~。
左手に向き直ると、二の丸の表門にあたる渡櫓門(わたりやぐらもん)がド~ンと構えています。
渡櫓門は、左右の石垣に跨った櫓を載せた門です。
右手には狭間がある長~い石塀が続いているのが、これまたイヤラシイ造り。
門の金属の錆が、独特の風合いを出しています。
飾り金具に銅を使用していたことから、銅門の名が付いてます。
梁の木材には、ちょっと変わった感じの模様が付いていますね?
「銅門の内部見学」 曜日限定公開!
で、銅門は土・日曜日・祝日のみ櫓内部の特別公開がおこなわれているんですよ。
これはラッキー!
中は結構広いですね~。
ここからは「石落とし」で敵を撃退する。
こちらでは小田原北条氏や家臣に混じって、小田原評定(ひょうじょう)の一員として記念写真が撮れます。楽しいですな~。
ちなみに現代では「いつまでも結論が出ない会議や話し合いのたとえ」として、小田原評定という言い回しがあるそうだ。
小田原合戦においては、内部の意見も煮詰まっていたようですねえ。
門を抜ける時気になった梁の模様の秘密は、こちらにありました。
当時はこの手斧(ちょうな)で表面を削ったはずで、工法を再現するとあの様な模様になるとのことだ。
史実を尊重して丁寧に復元されているんですね。
「二の丸跡」 銅門礎石展示
二の丸エリアに入ります。
広々とした「二の丸広場」。
銅門に用いられていたとされる「銅門礎石」の野外展示。
地中に埋め、中央のホゾ穴に柱材を入れて門を固定させます。ゴツイ石ですな。
箱根外輪山の安山岩製で、手前の石は約1.6トン、奥の石は約1.8トン。
側面には、石を削った跡がリアルに残ってますね!
「小田原城NINJA館(歴史見聞館)」は北条五代の歴史と風魔忍者について、映像や展示で学べる有料施設。
デジタル技術を活用した、参加・体験型の展示もあります!
「常盤木門」 最も堅固で大きな門
かつての本丸周囲は水堀で囲まれていました。
こちらの堀は「本丸東堀」と呼ばれ、本丸側へは「常盤木橋」でつながっていました。
元の常盤木橋は、残念ながら関東大震災で土台の石垣ごと崩れて消失したそうです。
かつての本丸東堀には、現在は花菖蒲園があります。
6月開催の「小田原城あじさい花菖蒲まつり」では、約1万株の花菖蒲と約2,500株のあじさいが鑑賞できるそうですよ。
常盤木橋をバックに映えそうですね~。
では橋の先の石段を登り、本丸入口にあたる常盤木門(ときわぎもん)に向かいます。
おや、忍びの者!?
園内には「甲冑着付け体験」の有料サービスがあるので、たぶんそれかと。
本丸正門「常盤木門」は、城内で最も大きく堅固に造られていた門です。
昭和46年(1971年)に市制30周年事業として、再建されました。
常盤木門の名の由来は、そばにあった松から付けられたとされます。
永久に枯れない緑のようにありたい、そんな思いが込められているようです。
「本丸と天守閣」 天守からは絶景が!
常盤木門を抜けると、城郭の中心部である本丸に入ります。
奥手に小田原城址のシンボルである天守閣がドド~ンと現れます。
本丸の広さは東西約150m・南北約114m。
中央広場の部分には、かつては本丸御殿が建っていたそうです。
かつての小田原城天守閣は、外観三重・内部四階の天守櫓と付櫓・続櫓で構成されていた。
現在の復元天守閣は、外観三重・内部五階。
ちなみに小田原城の天守閣は3回建てられているそう。
- 天守閣建築履歴
- 慶長年間(1596年~1615年)に築かれた望楼型天守。
- 寛永10年(1633年)の寛永小田原大地震後に復興された、層塔型天守が2代目。
- 宝永2年(1705年)に再興された層塔型天守が3代目。
最後は明治時代に解体されています。
復元天守閣のモデルは宝永年間に再建された際の天守閣。
図や模型を参考にして、昭和35年(1960年)に鉄筋コンクリート造りで外観復元されています。
天守の石段からの高さは27.2mで、全国7番目の高さを誇るそうですよ!
屋根にはシャチホコも見えますね。
天守閣内の見学は有料。
江戸時代や戦国時の興味深い資料が、実物やレプリカによって展示されています。
展示物は写真撮影禁止なので、館内の雰囲気だけちょこっとアップ。
そして小田原城の見どころといえば、やはりこの展望階からの眺望ですね!
南側には相模湾が広がり、風光明媚で素晴らしい景色。
かつての城主達も「絶景じゃ~」と言って、ここからの風景を楽しまれたことでしょう。
南西方向には、豊臣秀吉が小田原合戦の際に本陣として築かせた伝説の「石垣山一夜城」があった方角です。
写真中央の送電線の鉄塔の後方の山が、一夜城があった笠懸山です。
「石垣山一夜城」は、豊臣秀吉が築かせた総石垣の城。
小田原城から見えないように城を築き、完成後に周囲の木を伐採。
一夜のうちに築城したように見せたといわれる。
これにより、北条氏側の戦意喪失をさせたとされる。
さすが後の天下人、技ありの一本ですな。
御城印の紹介
御城印を天守閣にて購入。
左のものは季節限定の御城印です。
小田原城の基本情報・アクセス
小田原城址公園
公式ページ
住所:神奈川県小田原市城内(GoogleMapで開く)
天守閣の開館時間:9時~17時(入館は16時30分まで)
天守閣休館日:12月第2水曜日(館内整理のため)、12月31日〜1月1日
アクセス:
電車)
・「小田原駅」から徒歩10分
車)
・小田原厚木道路「荻窪IC」から約10分
・西湘バイパス「小田原IC」から約5分
・東名高速道路「大井松田IC」から約40分
・公園には、一般駐車場は無し。周辺の有料駐車場を利用のこと。
『北条氏政・氏照の墓所、北条早雲公の像など』
立寄った周辺スポットを紹介します。
「北条氏政・氏照の墓所」
小田原駅からほど近い場所にある「北条氏政・氏照の墓所」。
北条氏政は、北条氏の4代目の小田原城領主。
氏照は氏政の弟で、八王子城など5つの支城の城主でした。
豊臣秀吉により小田原城が落城された際、5代領主・氏直は高野山に追放され、父・氏政とその弟・氏照は城下で自刃しました。
こちらはその北条氏政・氏照の墓所といわれています。
- ・五輪塔:右)氏政夫人の墓、中央)氏政の墓、左)氏照の墓
- ・生害石:五輪塔前の平石の上で氏政・氏照が自刃したと伝わる
- ・笠塔婆型墓碑:左手の墓碑、氏政と氏照の戒名が刻まれている
合掌。
「ミナカ小田原」 食事処も
「ミナカ小田原」は、2020年に小田原駅東口に隣接してできた新しい複合施設。
高層階には駅直結のシティホテルを設置。
3階の城下町情緒薫る「小田原新城下町」では、フード・飲食店舗が多く入っています。
降り出した雨の中、駅チカのこちらに逃げ込み昼食としました。
小田原だからやっぱ魚だねっ!てことで、フードコートの「地魚や与一」でお刺身定食を頂きました。
フードコートねえ、とちょっと侮ってましたが美味しかった!
お刺身もなかなかだが、アジフライがホクホクで旨かったこと!
「北条早雲公像」
最後に、小田原駅西口ロータリーの北条早雲公の像にご挨拶しました。
小田原ランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
\ 海産物をはじめ美味しそうな返礼品が沢山!/
小田原城址公園へ出かけてみませんか?
小田原城址公園の歴史や見どころを紹介しましたが、いかがでしたか?
城好き・歴史好きが楽しめるのはもちろんのこと、家族連れや幅広い世代の方々が楽しめる公園で、さすが小田原を代表する観光地!という感じでした。
小田原城の総構えとして見ると、城址公園は城跡の一角。今度は街中の遺構を見て歩いてみたいです!
小田原城址公園に出かけてみませんか?
明治時代の初めにはまだこれだけ様々な城が残されていたんですね。
貴重な写真の数々に思わず釘付け!
記事の訪問日:2022/4/29
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