鎌倉といえば鶴岡八幡宮や小町通りが有名ですが、その賑わいから少し離れると、鎌倉幕府誕生の舞台となった歴史スポットが静かに残されています。
鎌倉最古の寺と伝わる杉本寺、源頼朝の墓とされる法華堂跡、武家政権発祥の地である大倉幕府跡、そして北条政子ゆかりの安養院。
これらを巡ることで、なぜ頼朝が鎌倉に幕府を開いたのか、そして政子が頼朝亡き後も鎌倉を守り続けた理由が見えてきます。
観光客の少ない落ち着いた道を歩きながら、源頼朝と北条政子の足跡をたどる歴史散策へ出かけてみましょう。
目次
源頼朝と北条政子が築いた鎌倉を歩く散策ルート

歩くエリアをイメージしやすいように、最初に散策ルート全体を紹介しておきます。
訪問先の場所は上記のマップを、距離感的には下記をご参照。
■JR鎌倉駅→杉本寺:1.8km(徒歩約25分)
■杉本寺→大蔵幕府跡地の碑:700m(徒歩約10分)
■大蔵幕府跡地の碑→法華堂跡(源頼朝墓):200m(徒歩約3分)
■法華堂跡(源頼朝墓)→安養寺:約1.9km(徒歩約30分)
■安養寺→JR鎌倉駅:約1km(徒歩約15分)
記事の最後には、徒歩で一日でめぐる場合のタイムテーブル、そしてバスやレンタサイクルなど、移動手段についても紹介しているので、そちらも散策プランの参考にしてみてください。
では次から各スポットを紹介してゆきます。
【杉本寺】幕府成立以前の鎌倉を伝える、奈良時代創建の古刹を歩く
杉本寺が一番札所となっている「坂東三十三観音巡礼」とは?
最初に訪問するのは、坂東三十三観音霊場の第一番札所「杉本寺」。

坂東三十三観音は鎌倉時代初期に開設された、日本最古級の巡礼路です。
平安時代末期に源氏と平氏が戦った源平合戦の後、敵味方を問わない供養や平和への祈願が盛んとなります。
そこで源頼朝のあつい観音信仰と、坂東武者たちが見聞した西国三十三ヶ所観音霊場への思いなどが、坂東三十三観音霊所の開設に結びついたと伝わります。
争いが続き、殺伐とした時代だったわけですね。。。
巡礼路は現在の神奈川・埼玉・東京・群馬・栃木・茨城・千葉の1都6県にまたがり、その全行程は約1300kmという広大な範囲に及ぶもの。
鎌倉幕府による交通網の整備がその巡礼路の成立を後押ししたことから、鎌倉時代の信仰文化を今に伝える歴史遺産といえます。
鎌倉最古の霊場に見る、頼朝の「天下統一への祈願」
その栄えある第一番札所に選ばれている杉本寺は、鎌倉最古の寺院といわれています。
杉本寺の歴史は天平6年(734年)までさかのぼり、光明皇后の御願により、行基が自刻の十一面観音を安置して開山したと伝わるもの。
源頼朝の鎌倉幕府開設よりも、さらに約450年前から当地に存在していた杉本寺は、武家の都として発展する以前から、鎌倉が宗教・信仰の拠点であったことを今に伝えています。

拝観料を納めて境内に入ると、石段の先に現われる風格のある茅葺屋根の山門が、実に古刹らしい雰囲気を感じさせる。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」によると、建久2年(1191年)、鎌倉入りした当時の源頼朝が杉本寺(当時は大倉観音堂)を参詣しています。
創建から約450年が経っていた堂宇は傷み、さらに文治5年(1189年)に起きた火災によって境内は荒廃。
この様子を目にした頼朝は「無常を感じた」といい、布200反を寄進して再興を支援したと記されています。
天下統一の準備中だった頼朝が自ら足を運び保護したことからも、鎌倉幕府草創期において、杉本寺が重要な信仰の場であったことが伝わってきます。
山門の仁王像|運慶作と云わる、迫力ある仁王像が出迎え

山門は仁王門となっており、両側には鎌倉時代の仏師・運慶作と云わる仁王像が納められています。
なかなか迫力のある仁王像で、こちらは向かって右手の”阿形”の像。

こちらは左手の”吽形”の像。

ところでこの仁王像の目の部分、ガラスが入っているんだと思いますが、このリアルさ、凄くないですか?

山門を抜けた脇には鳥居があり、そこにあったのは「大蔵弁財天堂」。

こちらの弁天尊をお参りすると、大きな蔵が建つ程の富に恵まれると、いわれているらしい。
それは参拝せねば。蔵が建ちますように。。。
「苔の階段」|千年以上の歴史を体感できる奇跡のスポット

本堂に向かう道に戻ると、杉本寺の大きな見どころの一つである、こちらの階段が現れます。

鎌倉石の階段を緑の絨毯のように覆い尽くす、深い苔。それは、千年以上の長い歳月が創り出した「奇跡の階段」の絶景です。
かつて詣でた源頼朝も、武家政権の未来を祈りつつ、この階段を上っていったんだろうな、と思うと、歴史ロマンに身震いしますね。
残念ながら現在は景観保護のため、苔の階段は通行禁止でした。
本堂|行基・円仁・源信による三体の十一面観音菩薩を安置
苔の階段を迂回して上がった先には、杉本寺の中心的な建物である観音堂(本堂)があります。
茅葺で5間四面の造りのこの観音堂は、延宝6年(1678年)に再建されたもの。この歴史を感じさせる、風格ある建物に御本尊が安置されています。

開山の際に行基が十一面観音像を納めていますが、その後に慈覚大師(円仁)も同じく十一面観音像を内陣の中尊として奉安。
さらに寛和2年(986年)には、花山法王の命を受けた恵心僧都(源信)が、再び十一面観音を奉安しました。
観音堂にはこの貴重な3体の十一面観音が、三尊同殿(さんぞんどうでん)と呼ばれる形式で祀られています。
3体のうち円仁と源信による2体は、国重要文化財に指定されています。
さらに。。。、建久2年に再建された際、頼朝は上の3尊像を内陣に安置し、その前に立てるための運慶作の七尺(約2.2m)の像を寄進しました。
ということで、観音堂にはそうそうたる観音像が安置されている、というわけです。
ちなみに十一面観音とは、人々をあらゆる苦しみから救うため、頭上に十の顔を備えた観音菩薩のこと。

文治5年(1189年)に観音堂は火災に遭っていますが、その際も3尊像は奇跡的に焼失を免れます。
当時の別当が火中に入って御本尊を助け出したわけですが、別当は衣の一部を焦がしたのみで、火傷を負うことも無く無事だったとのこと。
以来、観音さまの功徳が得られる寺として信仰を集めたそうだ。
一方、吾妻鏡には「火災の際に本尊の3体の観音像が自ら堂外へ移り、杉の木の下で難を逃れたため”杉本観音”と呼ばれるようになった」と、寺の縁起について記されています。
伝承内容の差はあれど、3体の観音菩薩の神秘的な力により、杉本寺が守られてきたことが語り継がれています。
秘仏・十一面観音の公開について
本堂の奥(収蔵庫)に安置されている3体の十一面観音は秘仏となっており、通常は非公開です。
原則として毎月1日と18日の縁日に御開帳されるので、それに合わせての訪問もおすすめ。
一方、源頼朝が寄進した前立本尊は普段から公開されており、通常の拝観時間内であれば、本堂でそのお姿を拝むことができます。
杉本城跡|鎌倉幕府の有力御家人・三浦氏の城があった地

観音堂の裏手の岩肌に面した場所には白山大権現・熊野大権現が祀られており、神仏習合の名残りを感じさせる。
ちなみにこの裏山付近には、かつて、鎌倉幕府の有力御家人・三浦氏が築いた山城「杉本城」があったと伝わります。
確かにこのあたりは、山城を築城するにはもってこいの地形の印象ですねえ。

小さいながらも、綺麗に整備された庭園にほっこり。

杉本寺はアクセスしやすいながらも、駅周辺の喧騒から離れて鎌倉の長い歴史が体感できる、歴史好きにはおすすめのスポットですよ。
杉本寺の御朱印

杉本寺のアクセス情報
杉本寺
公式サイト
住所:神奈川県鎌倉市二階堂903(GoogleMapで開く)
開館時間:9~16時 *15時45分受付終了
入館料:大人(高校生以上)300円、中学生 200円、小学生 100円
アクセス:
電車)
・JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩25分
・「鎌倉駅」発、京浜急行バス、4番乗り場から乗車して「杉本観音」下車、徒歩1分
車)
・専用駐車場無し ※隣接のコインパーキング:ショウワパーク 浄明寺3丁目
【大倉幕府跡】頼朝が夢見た、日本初の本格的な武家の都跡を歩く
源頼朝と関係性が深かった杉本寺を参拝した後は、頼朝が鎌倉幕府を最初に設置した場所を歩いてみます。
大倉幕府とは?|源頼朝が最初に居館や幕府機能を置いた場所

「大蔵幕府跡の石碑」は、杉本寺の向かいの県道を西(鎌倉駅方面)に5~6分程歩いた後、北側(右手)の住宅街に入った場所にあります。
なお、上記より少し遠回りになりますが、杉本寺から県道を200m程歩いた右手に、北側をぐるっと周って大蔵幕府跡碑や法華堂跡方面へと続く道が現れます。
山側を歩く雰囲気のあるルートなので、時間があればそちらを歩くのもおすすめ。
ちなみにこの周辺は随所に史跡・名所の案内板が立っているので、途中で道に迷う心配はないと思いますよ。

大倉幕府跡碑
「大蔵幕府跡碑」は、住宅街にある小学校の敷地に隣接して立っていました。
ここはかつて源頼朝が鎌倉幕府を開いた際、最初に居館や鎌倉幕府の統治機能を置いた場所です。
大倉幕府とは?
■治承4年(1180年)に鎌倉入りした源頼朝はまずここに居館を設け、東国武士団の政治・軍事の中心地として整備を始めます。
■文治元年(1185年)頃には全国の守護・地頭を統括する武家政権の実質的な拠点となり、日本初の本格的な武家政権の中枢として機能。多くの有力御家人が集まり、幕府では御家人の統率や訴訟、軍事指揮などがおこなわれました。
頼朝の死後、幕府機能は宇都宮辻子幕府(現、鎌倉市小町2丁目)へ移転され、大蔵幕府もその役割を終えますが、ここは頼朝の悲願がかなった記念すべき地といえます。

大倉幕府東御門の跡碑
「跡碑に隣接した小学校の辺りに、かつて頼朝の居館があったのか?」と想像してみたり、「東御門」「西御門」にも立寄って幕府の規模感を体感するなど、想像力を動員しつつ歴史ロマンを感じたいスポットだ。
大蔵幕府跡碑のアクセス情報
大蔵幕府跡碑
住所:神奈川県鎌倉市雪ノ下3丁目6-26(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・「JR鎌倉駅」東口から徒歩20分
・「JR鎌倉駅」東口4番・5番バス乗り場、京浜急行バス、八幡宮・浄明寺方面行きで「岐れ道」下車、徒歩約1分
車)
・専用駐車場なし ※金沢街道沿いにいくつかあるコインパーキングの利用をおすすめ
東御門跡碑 住所:神奈川県鎌倉市西御門2丁目8-10(GoogleMapで開く)
西御門跡碑 住所:神奈川県鎌倉市西御門2丁目1-11(GoogleMapで開く)
【法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)】武家政権の頂点、その「終焉の地」
源頼朝墓所|なぜ頼朝はここに葬られたのか?

大蔵幕府跡碑から北に200m程歩いた所に、源頼朝の墓と伝わる「法華堂跡」があります。

入口にある階段が、法華堂跡のある丘陵地へと続く。
秘めやかな雰囲気のこの一帯は、鎌倉草創期から源氏ゆかりの聖域と考えられていたようだ。

階段を上がると山の斜面を切り開いた空間が現れ、その一画に源頼朝の墓がありました。
元々ここはというと、頼朝が仏像に礼拝するための持仏堂が建っていた場所。
堂内には頼朝が常に身近に置いて信仰した、高さ2寸(約6cm)の小さな銀製の正観音菩薩像が祀られていたと伝わります。
「源平盛衰記」によると、治承4年(1180年)8月に頼朝が平氏打倒の挙兵をした時も、髪を結い上げる髻(もとどり)の中にその正観音像を忍ばせ、一緒に出陣させていたらしいですよ。
頼朝が53歳で死去した後、この地には「法華堂」(霊廟・墳墓堂)が建立され、源頼朝を鎌倉幕府創始者を供養する場所としてあつく信仰されたといいます。
源頼朝とは?|約700年続いた武家政治の礎を築いた、日本史上屈指の重要人物
17世紀の初頭までには法華堂の堂舎はなくなり、石造りの墓塔が建てられたとのこと。
現在の墓域は、安永8年(1779年)に薩摩藩8代藩主・島津重豪(しげひで)により整備されたものです。

ここで改めて源頼朝の人物概要を振り返ってみましょう。
源頼朝(1147~1199年)
■久安3年(1147年)、河内源氏6代目棟梁・源義朝の3男として尾張国に生まれる。
■永暦元年(1160年)、平治の乱で父を失い伊豆へ流罪となる。治承元年(1177年)頃、伊豆の豪族・北条時政の娘である北条政子と恋仲になり、結ばれたと伝わる。
■東国武士の支持を集めて勢力を拡大し、治承4年(1180年)に挙兵。弟の源義経らとともに約5年にわたる源平合戦を戦い抜き、元暦2年(1185年)の壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼす。
■文治元年(1185年)には守護・地頭の設置を認められ、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任じられる。
頼朝は朝廷に代わる政治機構「鎌倉幕府」を鎌倉に整備し、日本で初めて本格的な武家政権を成立させた。
■建久10年(1199年)、53歳で死去。
鎌倉幕府は約150年で滅びますが、頼朝が築いた「武士が政治を担う仕組み」は、江戸幕府が終わるまでの約700年間続きました。
そう考えると、武家政治の礎を築いた日本史上屈指の重要人物といえますよね。
頼朝の死が幕府にもたらしたものとは?

源頼朝の死後、強力な指導者を失なった鎌倉幕府は大きな転換期を迎えます。
家督を継いだ源頼家は18歳の若年で求心力に欠けたため、有力御家人による権力争いが激化。
この混乱の中で、源頼朝の妻・北条政子と父・北条時政が政治の実権を握り、北条氏による執権政治へと繋がってゆきます。
頼朝の死は将軍の交代のみならず、「北条氏主導の幕府」へ移行する契機にもなったわけです。

この墓所を江戸時代に整備したのが薩摩藩・島津家ですが、島津家の祖・島津忠久は鎌倉幕府の有力御家人の一人だった武将。家伝によると忠久は頼朝の庶子だった、とも言い伝えられているらしい。
それと、今回は紹介していませんが、この法華堂跡を東に進んだ先には別の平場があり、そこに鎌倉幕府2代執権・北条義時の墳墓堂跡とされる「北条義時 法華堂」跡があります。
平成17年(2005年)の発掘調査で発見されたもので、「吾妻鏡」に記載されている場所や地形とも一致しているとのこと。
毛利季光、大江広元、島津忠久の墓所もあるので、時間がある方は立ち寄ってみてください。

法華堂跡入口の階段下には「白旗神社」があります。
江戸時代になると法華堂はこちらに移され、明治時代には神仏分離により、頼朝を白旗大明神として祀る神社となりました。現在の社殿は昭和45年に造営されたものです。
法華堂跡(源頼朝墓)のアクセス情報
法華堂跡(源頼朝墓)
住所:神奈川県鎌倉市西御門2丁目5(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・「JR鎌倉駅」東口から徒歩20分
・「JR鎌倉駅」東口4番・5番バス乗り場、京浜急行バス、八幡宮・浄明寺方面行きで「岐れ道」下車、徒歩約3分
車)
・専用駐車場なし ※金沢街道沿いにいくつかあるコインパーキングの利用をおすすめ
【安養院】夫・頼朝を失った尼将軍、北条政子の供養塔のある寺院
最後に源頼朝亡き後の鎌倉幕府を支えた、北条政子ゆかりの寺院を訪問します。
安養院の歴史とは?北条政子が亡き夫・頼朝の供養のために創建
鎌倉駅まで一旦戻り、駅の南東を通る大町大路(県道311号)沿いにある、源頼朝の妻・北条政子ゆかりの寺院「安養院」へとやって来ました。
この辺りも閑寂なエリアなので、静かに歴史散策を楽しむにはおすすめ。駅から約1km弱なのも、そぞろ歩くには程好い距離だった。

坂東三十三観音霊場の第三番札所である安養院は「ツツジの寺」としても知られており、”おばけツツジ”とも呼ばれるオオムラサキツツジが、春の風物詩となっています。
本日も野性味あふれる巨大ツツジに出会えたので、安養院の標柱とともにパチリ!(訪問日は5月3日)。

安養院は北条政子の菩提を弔うために建立された寺院で、寺院名は政子の法名「安養院殿」にちなんで付けられています。
安養院の始まりは、北条政子が建立した長楽寺
寺院の始まりは、嘉禄元年(1225年)に政子が亡き夫・源頼朝の冥福を祈るため、長谷に建立した「長楽寺」でした。当初の建立地は鎌倉の大仏にも程近い、現在の鎌倉文学館がある付近です。
寺を建てる敷地を決定した政子が、嘉禄元年3月5日に幕府第3代執権・北条泰時らに土地の測量を命じたことが「吾妻鏡」にも記されています。
しかし、そのわずか4ヶ月後となる嘉禄元年7月11日、北条政子自身もこの世を去った。
死を予感していたかのような政子が捧げた、亡き夫・頼朝への”最後の祈り”となりました。
その後、14世紀前期に長楽寺が戦火で焼失した際、現在地にあった「善導寺」へと移された。
さらに頼朝の忠臣だった田代信綱が建立した「田代寺」の観音堂も統合され、安養院と命名されて今日に至っています。
北条政子という女性、その実像とは?

北条政子(1157~1225年)の人物概略
■伊豆の豪族・北条時政の娘として生まれる。
■治承元年(1177年)頃、伊豆へ流刑されていた頼朝と結ばれ、挙兵から鎌倉幕府創設まで夫を支え続けた。
■頼朝の死後に出家したが「尼将軍」と称され、実際には幕府の実力者として政治に深く関与。
建仁3年(1203年)には父・北条時政を失脚させ、弟・北条義時とともに幕府の安定に尽力するなど、将軍家と御家人をまとめる重要な役割を担った。
■朝廷と戦った承久3年(1221年)の「承久の乱」では、御家人に向けた名演説で結束を促し、幕府軍の勝利を後押しした。
武家政権草創期の激動を乗り越え、鎌倉幕府の基盤を守り抜いたことから、北条政子は日本史を代表する女性政治家の一人に数えられます。
また、北条氏による「執権政治」という特異な政治基盤が確立されたのも、初代将軍の妻・北条政子の存在があったからこそ、といえます。

江戸時代に再建された本堂には、室町〜江戸時代初期に作られたとされる「北条政子坐像」が安置されています(通常は非公開)。
北条政子の墓と、国重要文化財の鎌倉現存最古の宝篋印塔

本堂の裏手には祗園山の崖が迫っており、ここも鎌倉らしい地形を持つ場所。
かつてはこの崖に不動明王を祀る祠が在り、周囲の斜面や山中にも多くの尊像が祀られていたという、深い
信仰が根付いたエリアだったようだ。

そんな本堂の裏手には、2つの石塔が立ちます。
その一つが徳治3年(1308年)に造立されたこちらの宝篋印塔(ほうきょういんとう)で、造立年が判明するものとしては、鎌倉における現存最古の宝篋印塔とのこと。国重要文化財に指定されています。

その左側にあるのが北条政子の墓。
北条政子の墓は、子・源実朝の墓とともに鎌倉市扇ガ谷の「寿福寺」にあるとするのが通説なので、こちらは供養塔なのでしょうね。合掌。
頼朝と政子は本当に仲の良い夫婦だったのか?

墓石の下部には「安養院殿」の文字が読み取れる
ところで、源頼朝と北条政子は本当に仲の良い夫婦だったのでしょうか?
二人は頼朝が流罪中だった期間に伊豆で出会い、周囲の反対を跳ねのけて結ばれています。当時の武将としては、珍しい「恋愛結婚」による夫婦だったんですね。
その一方、政子が頼朝の愛妾(あいしょう)の住まいを破壊させた「亀の前事件」などが、「吾妻鏡」には記されています。
ここから夫婦間の緊張があったことも伺えますが、政子はその後も頼朝を支え続けており、挙兵から幕府創設に至る頼朝の最大の理解者であったといえます。
それを裏付けるように政子は頼朝の死後も再婚せず、幕府の維持に尽力しました。
この二人は、愛情と対立、信頼と協力、それらが複雑に絡み合うパートナーシップで結ばれていたのでしょうね。
安養院、その他の見逃せないポイントは?
参拝の際は、次の2つのスポットにも注目してみて下さい。

鎌倉時代末期から南北朝時代の造立と伝わる「日限地蔵」は、期限を限定して願掛けすると叶う、という一風変わった地蔵尊。
日限の御利益の他に、子授け・安産・育児の御利益があるとされます。

境内に植えられている巨木は、樹齢約750年の槙(まき)の古木。
鎌倉市指定天然記念物で、「かまくらと三浦半島の古木・名木50選」にも選ばれています。
安養院の御朱印

安養院のアクセス情報
安養院
住所:神奈川県鎌倉市大町3丁目1-22(GoogleMapで開く)
開館時間:8~16時 *最終受付15:45
入館料:200円
アクセス:
電車)
・JR横須賀線「鎌倉駅」から徒歩約15分
・JR横須賀線「鎌倉駅」、京浜急行バス、3番バス乗り場から「名越方面」行きで「名越」下車、徒歩1分
車)
・専用駐車場あり
歩いてみてわかった!源頼朝が鎌倉に幕府を置いた二つの理由とは?
源頼朝はなぜ幕府を京の都などではなく、鎌倉に置いたのでしょうか?
本日のルートを歩いてみて、なんとなくその理由を感じ取ることができました。
鎌倉に幕府を置いた一つ目の理由:
源頼朝にとって鎌倉は、祖先ゆかりの地。源氏の正統性を示す象徴的な土地であったため、東国武士の支持を集める拠点として相応しい地だったようです。
法華堂跡の辺りが、まさにそのゆかり地だったのではないででしょうか。

杉本寺境内から見下ろした、鎌倉の街
鎌倉に幕府を置いた二つ目の理由:
実際に歩いてみると良く分かるのですが、鎌倉は三方が山に囲まれており、南側には相模湾という天然の要害が控えています。
この軍事拠点を構えるのには絶好の地形だった、ことが鎌倉を選んだもう一つの大きな理由でした。
相模湾を手中にすることは、物流や交通網におけるメリットもありますしね。
頼朝はこの地形的優位性を活かして、京都の貴族社会から距離を置きつつ、独自の政治拠点を築いたというわけです。
【記事の参考にした情報】
・大蔵山 杉本寺 公式サイト
・史跡法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)【歴旅コラム】 神奈川県観光協会
鎌倉幕府を中心に権力争いをテーマにした、三谷幸喜脚本の大河ドラマ。
ドロドロとした駆け引き渦巻く、ピカレスクドラマの快作!
鎌倉歴史散策のお役立ち情報
杉本寺~法華堂跡~安養院をめぐる行程表
1日で杉本寺~法華堂跡~安養院を徒歩でめぐる場合の、行程表を作成してみました。
散策スケジュールを検討する際の叩き台になれば幸いです。
杉本寺~法華堂跡~安養院をめぐる行程表サンプル
10:00-10:25 ~鎌倉駅 → 杉本寺 移動(1.8km・約25分)~
10:25-11:25 杉本寺参拝
11:25-11:40 ~杉本寺 → 法華堂跡・大倉幕府跡碑 移動(850m・約12分)~
11:40-12:25 法華堂跡・大倉幕府跡碑見学
12:25-12:50 ~法華堂跡 → 鎌倉駅 移動(1.5km・約22分)~
12:50-13:50 *鎌倉駅周辺でランチ
13:50-14:05 ~鎌倉駅 → 安養院 移動(900m・約12分)~
14:05-14:50 安養院参拝
14:50-15:05 ~安養院 → 鎌倉駅 移動~
徒歩以外の移動手段について(車・バス・レンタサイクル)
車での訪問の注意事項
杉本寺と法華堂跡には専用駐車場がありませんので、事前にコインパーキングの位置などを調べておくと、当日慌てないで済むと思います。
バスの利用もおすすめ!
全長は約6km程の散策ルートですが、各所は県道沿いにあるのでバス併用も可能。私もバスを利用しつつ、めぐりましたよ!
バスの場合、鎌倉駅周辺では交通渋滞する場合もあるので、時間の余裕を持っての利用をおすすめします。
京浜急行バスのサイト
レンタサイクル情報
レンタサイクルをして自転車でめぐるのもおすすめ。坂のある山間の道もあるので、電動自転車をチョイスするのも良いと思います。
鎌倉レンタサイクル駅前店
公式サイト
住所:神奈川県鎌倉市小町1-1 *JR鎌倉駅東口 交番の裏(GoogleMapで開く)
COGICOGI 面白法人カヤックポート(鎌倉駅西口)
公式サイト
住所:神奈川県鎌倉市御成町5-1-12(GoogleMapで開く)
おすすめのカフェ情報
cafe kaeru 鎌倉

杉本寺から大倉幕府跡碑へ向かう山側の道を歩くとその途中にある、緑に囲まれて落ち着いた雰囲気の隠れ家的なカフェ。
軽食も提供しているので、ランチを兼ねての立ち寄りにもおすすめ。
公式Instagram
住所:神奈川県鎌倉市二階堂936(GoogleMapで開く)
鎌倉のランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
坂東三十三観音と他の寺をあわせた、関東の百寺を紹介。
「地球の歩き方シリーズ」なのでしっかりした内容!
タモリさんならではの視点で、鎌倉の歴史が解き明かされてゆきます。
読めば出かけてみたくなるはず!
静かな鎌倉で、頼朝と政子の物語をたどりに出かけよう
杉本寺から大倉幕府跡、法華堂跡、そして安養院へと歩くこの散策コースは、単なる寺社巡りではありません。そこには、源頼朝が武士の都を築こうとした理想と、北条政子がその志を守り続けた歴史が息づいています。
鎌倉の中心部の賑わいを離れた静かな道を歩くことで、幕府成立以前の古都の面影や、頼朝と政子の深い絆、そして観音信仰に支えられた鎌倉の精神文化をより身近に感じられますよ。
武家政権の原点をたどりながら、歴史の舞台となった街並みに耳を澄ませてみると、「もう一つの鎌倉」に出会えるはずです。
そんな歴史散策に、出かけてみませんか?
記事の訪問日:2026/5/5



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