幕末の動乱期を生き急いだ若き志士・渋沢平九郎は、近代日本経済の父として知られる渋沢栄一の見立養子にあたります。
栄一を主人公としたNHK大河ドラマ「青天を衝け」の中でも平九郎の生き様が描かれており、多くの共感を呼びました。
渋沢平九郎の終焉地となった越生町のゆかり地をめぐって、若くして散ったその生涯をたどってみます。
目次
若き志士・渋沢平九郎が散った地、越生町
大河ドラマ 青天を衝けのゆかり地として脚光
埼玉県のほぼ中央に位置する越生町は、町の半分以上を山林が占めている山間の町です。
「越生梅林」が名所として良く知られており、偕楽園・熱海梅園と並ぶ関東三大梅林の一つに数えられています。
また、越生町は室町時代に活躍した武将である太田道灌の生誕地ともいわれており、道灌ゆかりの地としての歴史ロマンを持つ町でもあります。
\ 太田道灌ゆかりの龍穏寺についての記事はこちら!/
越生駅には総合案内所「道灌おもてなしプラザ」が併設されており、プラザ内のギャラリースペースでは「渋沢平九郎展」が開催されていました。
令和3年(2021年)に放映された、渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ「青天を衝け(せいてんをつけ)」。
このドラマの中で渋沢栄一の見立て養子であった渋沢平九郎も、若き兵士としてその生き様が描かれていました。
大河ドラマの影響もあり、越生町は平九郎の終焉の地として注目されるようになっているようですよ。
渋沢栄一の見立養子だった平九郎
平九郎は”イケメン侍”といわれており、写真を見ると、なるほど端正でキリッとした顔立ちのイイ男ですね!そんな渋沢平九郎の人物概略を、最初にたどっておきましょう。
渋沢平九郎の人物概略
■弘化4年(1847年)、現在の埼玉県深谷市下手計(しもてばか)の米穀の商売や養蚕・農業を営む尾高(おだか)家の末子として出生。渋沢栄一は従兄弟にあたる。
■長男である兄・惇忠(じゅんちゅう)は家業のかたわら私塾を開き学問を教えており、渋沢栄一も門弟の一人だった。平九郎は尾高惇忠や渋沢栄一らの影響を受けて、幼少期から学問・文芸に親しむ。
後に姉の千代と栄一が結婚したため、栄一とは義弟の関係になる。
■慶応3年(1867年)、幕臣となった渋沢栄一がパリ万博で渡欧する際に、平九郎は栄一の見立養子(跡継ぎ)となる。
幕臣となった平九郎の江戸での生活が始まった直後、幕府の大政奉還により天皇へ政権が返上される。
これに伴い明治天皇側の新政府軍と旧幕府軍が戦う戊辰戦争が各地で勃発。平九郎も旧幕府側として渦中の人となる。
■慶応4年(1868年)5月23日、旧政府軍と新政府軍との間の「飯能戦争」に参戦する。
平九郎は従兄・渋沢成一郎を隊長とする旧政府軍側の振武軍(しんぶぐん)に参軍。実兄・尾高惇忠(おだかあつただ)とともに新政府軍と戦いましたが敗退。平九郎はその戦いの敗走中に命を落としました。
享年22歳(満20歳)の若さで亡くなった平九郎は、性格は温厚・沈着で勇気と決断力を持ち、所作は美しく色白で長身、腕力もある好青年と評されていました。
渋沢栄一とは、義弟で養子という不思議な間柄になります。
これは幕臣が渡欧する際、不測の事態が起きた時でも家系が途絶えぬよう、事前に後嫁ぎの届け出をする決まりによるものでした。これが平九郎の人生を変えたともいえます。
では飯能戦争敗退後からの平九郎の足取りを追って、最期の地を訪問してみましょう。
「渋沢平九郎自決の地」飯能から顔振峠を越えた地
新政府軍に敗れ黒山村へ敗走
最初に紹介するスポットは「渋沢平九郎自決の地」です。そう、若き渋沢平九郎はこの場所でこの世を去りました。
景勝地・黒山三滝にもほど近い山間部の県道脇に、自決の地の碑がポツンと立っています。
知らずに車で走っていたら通り過ぎてしまいそうな、そんなひっそりとした場所です。
飯能戦争において平九郎も参戦した旧政府軍(振武軍)は、本陣であった飯能の能仁寺に約500名が集結。それに対し、2千~3千名といわれる新政府軍が制圧に掛かりました。
新政府軍との兵数・装備における力差の前に、旧政府軍は半日で敗退します。
退却中に惇忠らともはぐれた平九郎は、単身で飯能と越生の境にある顔振峠(かあぶりとうげ)を越え、この黒山村へ逃れてきました。
顔振峠は標高約500mの峠ですが、鎌倉時代に源義経が峠を越えた際に見晴らしが美しかったため何度も振り返った、というのがその名の由来だと伝わります。
\ こちらで飯能戦争の旧幕府軍の本陣・能仁寺の紹介があります /
平九郎は抵抗むなしく、岩に座して自決した
顔振り峠を抜けた後は、山中の道無き道を苦労して歩いてきたのだと思われるが、残念ながらここで新政府軍方の斥候3名と遭遇してしまう。
敗残兵と見破られた平九郎は小刀で1名を切り伏せた。道中目立たないようにと、太刀は峠の茶屋の主人に預けてしまっていたのだ。
続いて残りの2名とも渡り合いますが、その際に右肩を負傷。さらに銃弾で太股を貫かれてしまいます。
負傷した平九郎は抵抗むなしい状況を悟り、道端のこの岩に座して自決しました。享年22歳(満20歳)という短い命でした、合掌。
ところで、争いの詳細が妙に詳しく残っていますよね?実はこれ、負傷した斥候の治療をした医者が詳細を聞き取って、1枚の絵に残していたんですって
これが後に、兵士が渋沢平九郎であったことを示す重要な情報元となりました。
自刀した岩の脇には、傘を差し出すように枝を広げた1本の樹木がありました。
これは「平九郎ぐみ」と呼ばれ、平九郎の血の色を宿す実を付けると記されています。無念の色かあ。。。
渋沢平九郎自決の地
住所:埼玉県入間郡越生町黒山(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)JR八高線・東武越生線「越生駅」西口より、川越観光バス黒山行き「黒山」下車、徒歩5分
車)関越道「坂戸西IC(スマートインター)」から約35分、「鶴ヶ島IC」から約45分
「全洞院」平九郎の骸が納められた寺
渋沢栄一命による墓石が立つ
次に自決の地から400m程離れた、越辺川(おっぺがわ)沿いにある「全洞院(ぜんとういん)」を訪問しました。
平九郎が自決した後は、むごい話なんですが。。。首をハネられ、その首は越生今市(現・越生町の市街地)に持ってゆかれて高札場でさらされたんだそうだ。やるせないなあ。。。
哀れに思った黒山の村人の手により、首を失った骸はこちらの全洞院に運ばれて葬られたそうだ。
全洞院は太田道灌と道灌の父・道真の墓がある古刹、龍穏寺(りゅうおんじ)の末寺です。
龍穏寺はここから4km程離れた場所にあります。
境内の案内に従い奥へ。
一番奥手のひっそりとした場所に平九郎の墓石がありました。
墓石は渋沢栄一の命によって立てられたものです。
渋沢栄一が平九郎の死を知ったのは、欧米より帰国した後のことでした。
明治7年(1874年)、平九郎の骸は後述の法恩寺に埋葬されていた首とともに、東京谷中の渋沢家墓地に改葬されています。最後はきちんとした形で弔われて何よりです。
渋沢栄一は全洞院に2度来訪しています。
1度目は明治32年(1899年)に平九郎の兄・尾高惇忠と共に訪問。飯能の能仁寺と平九郎自決の地を訪れた後、全洞院で法要を行いました。
その後、明治45年(1912年)に再訪しています。
全洞院
住所:埼玉県入間郡越生町黒山674(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)JR八高線・東武越生線「越生駅」西口より、川越観光バス黒山行き「黒山」下車、徒歩5分
車)関越道「坂戸西IC(スマートインター)」から約35分、「鶴ヶ島IC」から約45分
「法恩寺」平九郎の首が葬られた寺院
渋沢平九郎の埋首の碑が残る
最期にやって来たのは、越生駅にも程近い法恩寺。
こちらは天平10年(738年)頃に行基が創建したと伝わる、歴史のある真言宗の寺院です。
正徳元年(1711年)に建立された中門は、越生町最古の木造建築物といわれています。
高札場でさらされた平九郎の首は、越生今市宿の民によって密かに法恩寺に持ち込まれて埋葬されました。
まずは本堂でお参りさせて頂きました。
本堂向かいの鐘楼も、享保6年(1721年)の築という大変古い物でした。
「渋沢平九郎埋首の碑」は、墓地手前の階段脇にあります。
こちらが埋首の碑。昭和39年(1964年)に建てられたものです、再び合掌。
本堂前に「四国八十八霊場御砂場」がありました。
これを踏んで八十八ヶ所のありがたい御功徳を頂いたところで、本日の渋沢平九郎の終焉地めぐりを終了します。
法恩寺
公式ページ
住所:埼玉県入間郡越生町越生704(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)JR八高線・東武越生線「越生駅」より徒歩1分
車)関越自動車道「坂戸西スマートIC」から約7km、「鶴ヶ島IC」から約9km
越生名物、梅の加工品をお土産に
本日は物悲しいスポットめぐりとなりましたので、観光案内所で楽し気な地元のお土産を買って帰りますかね。
越生名物の梅にちなんだマスコットキャラクター”うめりん”印のお菓子である、うめりん あんころ餅を購入。
越生産梅肉ペースト入りのあんこで、甘酸っぱいさわやかな梅風味が美味しかったです!
こちらではコーヒーや軽食を頼むこともできますので、訪問の際は休憩に立ち寄ってみてください。
越生町インフォメーションセンター
住所:埼玉県入間郡越生町越生790(GoogleMapで開く)
営業時間:9時~17時
定休日:年末年始
アクセス:
電車)「越生駅」より徒歩1分
車)駐車場あり(10台)
越生のランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
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黒山三滝
越生を代表する景勝地。
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黒山三滝
住所:埼玉県入間郡越生町黒山(GoogleMapで開く)
※越生駅から川越観光バス黒山行き乗車で25分、終点「黒山」下車で徒歩15分。車では関越道「鶴ケ島IC」から、国道407号経由で約40分(18km)。
龍穏寺
関東の武将として知られる太田道灌と父・道真の墓がある寺院で、道灌生誕の地ともいわれる。
歴史を感じさせる古刹で見どころも多い。
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龍穏寺
住所:埼玉県入間郡越生町龍ヶ谷452-1(GoogleMapで開く)
※越生駅から、川越観光自動車バス・黒山線に乗車約20分「上大満(かみだいま)」下車のち徒歩約25分。
山吹の里公園
太田道灌にまつわる「山吹の里伝説」の故地といわれる場所。
約3千本植えられている山吹が例年4月から5月にかけて咲き乱れ、黄金色に輝きます。
山吹の里歴史公園
住所:埼玉県入間郡越生町如意(GoogleMapで開く)
※越生駅から徒歩7~8分。駅から車だと2~3分。
越生梅林
越生を代表するスポットで「関東三大梅林」の一つ。
毎年2月中旬~3月中旬にかけて「越生梅林梅まつり」が開催されます。
越生梅林
住所:埼玉県入間郡越生町堂山113(GoogleMapで開く)
※越生駅から川越観光バス・黒山行き乗車で約13分、梅林入口下車、徒歩すぐ。
車は、関越道「鶴ケ島IC」から約30分(約14km)、または圏央道「圏央鶴ケ島IC」から約30分(約14km)、または関越道「坂戸西IC(スマートインター)」から約25分(14km)。
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記事の訪問日:2021/10/10
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