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徳川が攻めあぐねた上田城、その堅城の秘密を紐解く【長野・上田市】

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大河ドラマ真田丸で人気となった、真田昌幸が築いた長野県上田市の「上田城」。
地の利を活かして徳川家の大軍を2度も退けた、難攻不落な堅城として知られています。

上田城は上田盆地のほぼ中央に位置する立地。
かつては千曲川に面した断崖絶壁を見上げると、改めて真田昌幸が築城名人だったことを知らされます。

現在も江戸時代の遺構が多く残り見どころも多い上田城跡公園を、その歴史をふり返りながら探訪します。

目次

『上田城』地形を生かして真田が築いた城

上田駅周辺から真田愛で溢れる!真田幸村像ほか

上田城(長野県上田市)
真田幸村像

上田城跡公園の最寄り駅の上田駅に降り立つと、構内から周辺まで、武将・真田氏への愛で溢れてました。

上田駅から城跡公園までの距離は約1kmで、そぞろ歩くには丁度良い感じの距離です。

街中でもこんな所に?と思うほど、真田家家紋の六文銭のデザインを見かけます。
道中には真田家に仕えたとされる10人の家臣、「真田十勇士」のモニュメントが各所に設置されているのも楽しい。

日本100名城 上田城、仙石忠政が復興した城跡

上田城(長野県上田市)

ほどなく上田城跡公園入口に到着。
二の丸橋を渡って入園です。

入口向かいには「上田市観光会館」があります。

観光会館には日本100名城スタンプの設置や、御城印販売をおこなっています。
また、2016年放送のNHK大河ドラマ、「真田丸」の関連展示も多くあります。
是非、行き帰りに立ち寄ってみましょう!

上田城(長野県上田市)
案内図より

見学前に上田城の概要紹介になります。

上田城は戦国時代の天正11年(1583年)、真田昌幸によって築城された城です。
江戸時代以降も使用され、明治時代に廃城になりました。

上田城の縄張りは、本丸を谷に面した片隅に造り(水堀に囲まれた部分)、その3方向を二の丸が囲みます。
さらにその外側を三の丸が取り囲む、梯郭式の平城です。

かつての本丸と二の丸が、現在城跡公園として整備されています。

三の丸は、現在は市街地化されており残っていません。

ちなみに、現在復元されている上田城の姿は、真田信之後の上田藩主である、仙石(せんごく)忠政が復興した城郭が基本となっています。

上田城は日本100名城の一つに数えられます。


上田城(長野県上田市)

二の丸橋の先はかつての二の丸になります。

橋から見下ろすと、二の丸周囲の深い堀跡が確認できます。
内側は、掘を掘削した際の残土を利用したと思われる、土塁が続いています。

当時は水をたたえた堀だったそうです。

上田城(長野県上田市)

園内に進むとまず現れるのが「二の丸東虎口」。
両側には櫓台の石垣が残り、かつてあった櫓門の面影を残します。

上田城(長野県上田市)

櫓台の石垣。

上田城の石垣の積み方の大部分は、打ち込み接ぎ(うちこみはぎ)によるものです。
これは、石の角や面をある程度整形して積み上げ、石の隙間に間詰石(あいづめいし)と呼ばれる、小石を打ち込む方法。

城内の石垣石の大部分は、北方の太郎山産の緑色凝灰岩が使用されています。

二の丸東虎口の石垣には、隙間のない切込接ぎ(きりこみはぎ)風の積み方が一部に見られる。
築垣当時のものと、昭和初期の修理部分が混在しているようです。

真田昌幸が上田城を築城

上田城(長野県上田市)

園内を進むと水堀越しに本丸の櫓が見える、城跡然とした情景が現れます。

紅葉はだいぶ終わり掛けでした。
ここは桜も植えられており、四季折々の味のある情景が楽しめそうですわ。

本丸の堀は、南側が水を張らない空堀だった他は、三方全て水堀でした。

堀の幅は本丸をはじめ、二の丸・三の丸とも約30m。
本丸の堀の深さは約8mで、二の丸・三の丸よりも深めでした。

上田城(長野県上田市)

本丸の正面入口には、「東虎口櫓門(ひがしこぐちやぐらもん)」が復元されています。
門の両脇の櫓は、右手が北櫓で、左手が南櫓です。

上田城の歴史概略
天正11年(1583年):真田昌幸が上田城を築城。
天正13年(1585年):第一次上田合戦。真田軍は、徳川方7千の軍勢の攻撃をわずか2千の兵で撃退。
慶長5年(1600年):第二次上田合戦。再び徳川軍を撃退するも、関ヶ原の合戦の後、上田城は徳川方に接収される。
慶長6年(1601年):徳川軍により上田城破却。城と上田領は、真田家長男・信之に引き渡たされる。信之は三の丸の城主屋敷で藩政にあたった。
元和8年(1622年):真田信之、松代へ移封。変わって小諸より仙石忠政入封。
寛永3年(1626年):仙石忠政が上田城修築工事に着手。
宝永3年(1706年):仙石政明、但馬国(兵庫県)出石の松平忠周と所領交代となる。
明治7年(1874年):上田城が民間に払い下げとなり廃城。

真田家が2代、仙石家が3代、松平家が7代と、12名が歴代の城主を務めました。

上田城(長野県上田市)

本丸を囲む水堀は仙石忠政時代の遺構ですが、堀は真田時代のものを掘り返したものらしい。

第二次上田合戦で徳川を苦しめた真田昌幸・幸村は、関ケ原の合戦後に高野山に配流されました。

その際上田城は破却され、建物解体はもちろんのこと、土塁を崩し堀まで埋めらます。
実質廃城となった上田城が、真田信之に渡されました。

その25年後に仙石氏が修築を手掛けますが、築城覚書のなかで真田古城の堀の掘り返し指示がされています。

ということで、城跡には真田氏の縄張りの面影が残っている、と考えて良さそうです。

『眞田神社と本丸跡を歩く』

「真田石」 真田の伝承が残る石垣石

上田城(長野県上田市)

本丸入口の櫓台に使われている、「真田石」と呼ばれる一際大きな石。

真田信之が移封を命じられた際、父・昌幸の形見としてこれを持ってゆこうとした。
しかし微動だにせず、持ち出せなかったという。

へえ~、と思いましたが、石垣は仙石氏時代のものですね。
これは後世に作られた伝承で、真田の城のイメージが強いことを象徴するエピソード。

上田城(長野県上田市)

「櫓門」は渡櫓門になっておらず、門と両側の櫓がそれぞれ独立した造り。

「本丸東虎口の北櫓・南櫓」 櫓内の見学ができる

上田城(長野県上田市)
南櫓

南櫓と北櫓は明治時代の廃城時に、売却により他所へ移築されました。
それが昭和24年(1949年)に、ここに再移設・復元されたものです。

ちなみに両櫓は上田城北側に位置する、太郎山近郊の上田遊郭で使用されたそう。
なんとも、時代の転期を感じさせる話ですねぇ。

上田城(長野県上田市)
北櫓

北櫓と南櫓は、櫓内部に入っての見学ができます。
ですが、残念ながら冬期は休館!

11月19日の訪問でしたが、11月14日までは公開していたそうで口惜しい。
訪問時には、ぜひ開館日の確認をしてお出かけ下さい。

「眞田神社」 歴代上田城主を合祀

上田城(長野県上田市)

本丸エリアは「眞田神社」の境内と、広々とした緑地公園で構成されています。

神社はもともと旧藩主・松平氏への報恩とする松平神社として、明治時代に創設されました。
その後の昭和26年、真田氏・仙石氏・松平氏の歴代全城主を合祀。

初代城主の名を冠し、眞田神社と改名されました。

上田城(長野県上田市)

2度にわたり徳川の大軍勢を退けた「落ちない城」。
そして大河ドラマ・真田丸で知名度を上げ、受験生をはじめ合格祈願の参拝者が後を絶たないそうです。

「本丸西櫓」 江戸時代寛永期の現存櫓

上田城(長野県上田市)

見どころの多い境内ですが、まずは一番奥手に建つ「本丸西櫓」を紹介。

こちらは、江戸時代初期の寛永3年(1626年)、仙石忠政の時代に造られた本丸隅櫓の一つ
江戸初期の寛永期当初の部材のまま、外観も当時の姿を残している。

全国的にも、この時代のものが残っているのは貴重。
こちらは外観のみの見学となります。

上田城(長野県上田市)

窓は棒で突き上げて素早く開けられる構造で、「武者窓」と呼ばれるそうだ。
その左手には、鉄砲を撃つための小さな狭間(さま)も見えます。

なかなか実践的な機能を持つ造り。
実際は倉庫として使われたのみで、住居機能もなかったようだ。

上田城(長野県上田市)

外側下方から見た、西櫓台の石垣。
打ち込み接ぎによる積み上げ。

正面の東虎口側と比べると、やや小さめの石でまとめられている気がします。

上田城(長野県上田市)

西櫓のあたりから、南側の本丸背後を見渡す。

西側の遠くに見える山々は北アルプスかな。
直下に芝生公園が広がってますが、かつては千曲川支流の流れによる、自然の要害がありました

上田城(長野県上田市)

城跡公園の入口がある東方面を望む。
公園一帯が、特徴的な台地上にある地形が良く分かります。

真田幸村像と真田赤備え兜

上田城(長野県上田市)

西櫓をバックに立っているのが「青年真田幸村(信繁)公之像」。
2020年に建立された新しい像なんですね。

真田幸村、実名は信繁。
元亀元年(1570年)頃、上田城を築城した真田昌幸の次男として生まれる。
徳川軍を相手にした、2度の上田合戦での勝利に貢献。

その後は羽柴秀吉(豊臣秀吉)に服属。
秀吉の死後、豊臣秀頼の元で戦った大阪の陣では、徳川方の攻城軍に大打撃をあたえる。
また、徳川家康の本陣を崩し追い詰めるなど、その戦いぶりは語り草となっています。

大河ドラマ「真田丸」では、主人公として取り上げられた武将ですね。
ドラマで描かれた義を貫いた一途な生きざまに、胸を熱くした記憶が蘇ってきますわぁ。

上田城(長野県上田市)

その近くには、「真田井戸」と呼ばれる井戸跡。

井戸内には抜け穴が設けられており、太郎山麓の砦に通じていたといわれる。
敵に包囲されてもその穴から、兵糧や城兵の出入りが自由自在だったとか。

上田城(長野県上田市)

「真田赤備え兜」は、上田城における映えスポットの一つ。

真田幸村は大阪夏の陣において、朱色の武具で統一した部隊を率いた。
その際かぶった、朱色の兜の巨大レプリカです。

真田家の家紋として知られる、六文銭があしらわれている。
これは、仏教の三途の川の渡し賃である六連銭が由来とされます。
決死の覚悟で戦う、という強い意思が込められていたようです。

「本丸跡」 かつては7つの櫓を設置

上田城(長野県上田市)

本丸エリアの残り半分は、このような緑地公園になっています。
落葉したイチョウの葉が、秋の季節感を感じさせます。

上田城(長野県上田市)

仙石時代の復興時に、本丸周囲には土塁がめぐらされました。
そして土塁や石垣の上には、7つもの櫓が築造されたそうです。

その一方、本丸内には天守閣はおろか、御殿も造られなかったというのが意外。
家臣詰所があった程度で、建物らしいものはほとんどなかったという。

上田城(長野県上田市)

西側の「隅櫓の跡」。
土塁上には、4ヶ所に櫓があった。

上田城(長野県上田市)

本丸西側の水堀を望む。
北側の山々を背景にした景色が美しい。

ところで水堀に水を張るには、水源が必要となります。
上田城の城下町は平坦だったため、近隣に流れこませられる水源がなかったそう。

そこで東に約4kmも離れた高台の神川から、はるばる水を引いたとのこと。

『本丸裏手・尼ヶ淵に降り立つ』

尼ヶ淵より西櫓を見上げる

上田城(長野県上田市)

城の立地を下から眺めたく、西櫓の南側裏手へ降りてみた。
階段は結構急なんで、下りる時は気をつけて。

上田城(長野県上田市)

ここは現在は芝生広場と上田城跡駐車場があるが、かつては千曲川の分流が流れていた。
西櫓を見上げると、城が川沿いの断崖絶壁上に築かれてることが体感できる。

上田城(長野県上田市)

このあたりは「尼ヶ淵」と呼ばれた天然の崖で、高さは約12mある。
上田泥流層(ていうゅうそう)による切り立った崖が、本丸後方を難攻不落としています。

この地形・地勢を巧みに利用した立地こそが、真田の築城技術の痕跡そのもの。
堅城となった理由の一つでしょう。

上田城(長野県上田市)

一方、自然の力は意図したよりも強力で、千曲川の増水の際には水が崖を削ってしまう弊害があった。

享保17年(1732年)の大水では、崖が大きく崩落。
当時の城主・松平忠愛(ただざね)は、崖を保護する石垣築造をします。

これは南櫓と西櫓以外の箇所に関しては、石垣が低くなったり、造られずに終わったりしています。

上田城(長野県上田市)

尼ヶ淵跡は、櫓のビュースポットとしてもオススメのエリア。

『二の丸跡をめぐる』

「土塁の隅おとし」 城内ので鬼門除け

上田城(長野県上田市)

二の丸内の本丸の堀沿いには、散策路が整備されてます。
このあたりも、桜の季節は特に良さそうです。

上田城(長野県上田市)

本丸の北東角の、「土塁の隅おとし」といわれる部分。
少しわかりずらいですが、北東角の土塁の隅は四角ではなく、えぐれた感じに切り落とされています。

これは鬼門除けの、”隅おとし”と呼ばれる風習なんだそうです。
本丸側の窪んだ両脇には、2棟の櫓が配置されてたそうだ。念入りですな。

「北虎口石垣」 枡形門を形成

上田城(長野県上田市)

二の丸北側の公園として整備された一角に、「二の丸北虎口跡」が残ります。

写真手前の左手には土橋があった。
橋側から入って直進すると、写真右手の石垣にふさがれて行き止まり。
城内へは鉤状に左手に折れて向かうという、枡形門(ますがたもん)を形成していました。

当時、門の周囲は水堀に囲まれていました。

上田城(長野県上田市)

石垣は平成に復元整備されたものですが、一部に築造当初のものが残っているそうだ。

この二の丸北虎口には櫓門建造の予定もあり、建物用の礎石も発見されている。
しかし忠政の病死により、櫓が建てられることはなかった。

「百閒堀と石の樋」

上田城(長野県上田市)

門の北西側には、「百閒堀(ひゃっけんぼり)」と呼ばれる広大な水堀がありました。

現在は元の堀の形状を生かして、陸上競技場と野球場が造られています。
う~む、でかい堀だったんですなあ。

観客席も堀の内側の斜面を利用しているというのが、面白い。

上田城(長野県上田市)

その競技場入口付近には、ぴょこんと突き出た石の樋(とい)(=導水管)が残っています。
これは東側から西側の堀へ、水を通す目的に造られたもの。

木製の樋だったものが、元禄15年(1702年)に石の樋に変更された記録が残っています。

「上田市博物館」 歴代藩主の甲冑など

上田城(長野県上田市)

最後に、公園入口にある「上田市立博物館」を見学しました。

上田地域の歴史に関する展示をおこなっている「本館」。
そして、真田氏に関する資料を中心に展示している「別館」で構成されています。

上田城(長野県上田市)

「真田信之伝馬定書」は、上田藩主・真田信之が上田宿海野町の伝馬負担につい
て注意を与えたもの。
慶長9年(1604年)、もしくは元和2年(1616年) に出されたもの。

上田城(長野県上田市)

仙石家で所用したと伝わる具足。

上田城(長野県上田市)

上田藩松平家、初代藩主・忠周(ただちか)所用の具足。

上田市立博物館

住所:長野県上田市二の丸3番3号(上田城跡公園内)

明治時代の初めにはまだこれだけ様々な城が残されていたんですね。
貴重な写真の数々に思わず釘付け!

上田城跡公園の詳細情報・アクセス

上田城跡公園

公式ページ
住所:長野県上田市二の丸2(GoogleMapで開く
電車)
・「上田駅」(JR・しなの鉄道・上田電鉄別所線の3駅は併設)から、徒歩約12分。
・「上田駅」より上田市街地循環バス赤運行(あかバス)乗車、「公園前」下車。
車)
・上信越自動車道「上田菅平IC」から。約15分(約4km)。
・上田城跡駐車場(櫓下広場南側)は無料駐車場。普通車88台。
・上田城跡北観光駐車場は有料駐車場。最大224台の駐車が可能。

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上田城跡公園に出かけてみませんか?

上田城跡公園を紹介しましたがいかがでしたか?

櫓や石垣が城跡公園としての雰囲気を感じさせてくれますが、建造物のみならず堀や土塁などの遺構も予多く残っており、歩いて楽しい城跡でした。

そして今後の新しい復元計画もあるようなので、今後の整備についても注目したいところです。

上田城跡公園に出かけてみませんか?

使用した参考資料について)
現地の案内板の他に、上田市立博物館監修「郷土の歴史 上田城」を参考にしました。

記事の訪問日:2023/11/19

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