戦国時代、豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとしておこなった、小田原征伐による北条氏の攻略。
北条氏の支城であった八王子城では、秀吉軍との壮絶な戦いが繰り広げられました。
その戦いに関する記録や歴史をたどりながら、現在は日本100名城にも数えられる八王子城跡をめぐります。
山頂部にある本丸跡や、発掘と復元が進んでいる山麓部の御主殿跡など、見どころが多い山城跡です。
訪問時に役立つアクセス方法や施設情報なども併せて紹介します。
目次
八王子城の歴史概要と施設紹介
八王子城の歴史概要
戦国時代、小田原に本拠を置き関東に覇権をもった小田原北条氏(後北条氏)。
八王子城はその3代目当主・北条氏康の3男である、北条氏照により築かれた山城です。
八王子城の歴史概要
■北条氏照は幼い頃、武蔵国由井城城主・大石綱周(つなちか)に養子入りし、後に滝山城主となる。
■氏照は晩年、急峻な深沢山(八王子城山)に大規模な山城である八王子城を構築。
築城時期は明確ではないが、天正10年(1582年)以降に築城は開始され、天正15年(1587年)までには居城を滝山城から八王子城に移している。
■豊臣秀吉が北条氏を攻めた小田原征伐(関東征伐)において、八王子城もその攻撃を受ける。
天正18年(1590年)6月23日、小田原在城だった城主の氏照を欠いたまま、豊臣軍の前田利家・上杉景勝などの軍勢の猛攻を受け一日で落城。
八王子城の落城は小田原城開城を促し、豊臣軍の勝利につながり北条氏は滅びました。
八王子城は、現在は日本100名城の一つに数えられています。
八王子城跡ガイダンス施設
八王子城跡のバス停を降りて歩くと、すぐ現れるのがこちらの「ガイダンス施設」。
変わった建物の形が印象的でしたが、後で調べたら八王子にちなんで八角形の建物なんだそうだ。
へぇー、そうだったのね。
八王子城跡ガイダンス施設
住所:東京都八王子市元八王子町3-2664-2(GoogleMapで開く)
開館時間:9時~17時
休館日:年末年始(12月29日~1月3日) *他に臨時休館する場合もあり。
入場料:無料
施設概要:八王子城の歴史や全体像などの紹介展示のほか、日本100名城スタンプやリーフレットの配布対応など。トイレ・他の休憩スペースあり。飲み物の自動販売機あり。
この先に管理棟という施設もあるが、日本100名城スタンプはそちらには置いていないので注意。
ボランティアガイドの実施(管理棟)
ガイダンス施設を後にして進むと、史跡八王子城跡のブレートが現れる。
道なりに右手に進むと本丸のある要害地区方面、左手を下ると居館地域。その分岐点になります。
見えている建物は管理棟。
こちらではボランティアガイドによる居館地区の案内を受付けています。
ボランティアガイドツアーについて
休業日:年末・正月三が日(市役所の休日と同じ)と、ガイドの定例会・集合研修日以外年中無休。
ガイド時間:9時~16時(受付は15時まで)
ガイド料:無料
ツアー時間:45分~1時間半
事前予約窓口:八王子市文化財課 直通TEL:042-620-7265
※悪天候などにより活動を休止する場合あり。
ガイドの人によっては、要害地区のガイドも頼めるとか。
管理棟
施設概要:トイレ・ガイド控室・パンフレット配布など。飲み物の自動販売機あり。
トイレの利用可能時間:9時~17時。 ※年末年始(12月29日~1月3日)は、管理棟トイレ及び駐車の利用可。
城跡茶屋
管理棟の奥にある小さなカフェ。飲み物のほか、軽食販売などもある。
公式インスタグラム
営業時間:10時~16時
定休日:月曜日・金曜日
【要害地区】本丸を中心とした山頂の曲輪群
八王子城のエリア構成について
右手に進むと「八王子城跡自然公園」の看板と登山道の入口が現れます。
八王子城は深沢山の山頂に本丸を置き、周辺の尾根や入り組んだ谷、そして山麓側の平地などの自然の地形を利用して築かれています。
城郭は山全体に広がっており、約154ヘクタールにおよぶ広大な範囲が史跡指定を受けています。
八王子城の構成
城郭は地形や目的から、5つの地区に分類される。
■居館地区:城主・北条氏照の御主殿を中心とした地域
■要害地区:本丸など、山頂曲輪を中心とした曲輪群
■根小屋地区:家臣団の居住区
■太鼓曲輪地区:城山川の東南部に連なる尾根にある曲輪
■御霊谷(ごれいや)地区:太鼓曲輪のさらに南麓の防御のための曲輪
防御の工夫が見られる「金子曲輪」
軽くストレッチした後、山道へ。
歩き出してすぐ、新道(左)と旧道(右)の分岐が出現。
ここは整備された新道から登ることにしました。
帰りは旧道を下りましたが(後述)、やはり新道は道幅もあり歩きやすいルートでした。
石の鳥居を抜けます。
山頂付近には八王子神社があるので、山道は神社参道の位置付けでもあるようですね。
歩き始めは緩やかな傾斜でしたが、進むにつれ徐々に急勾配に。
5合目にある「金子曲輪」跡。
北条氏家臣の金子三郎左衛門家重(いえしげ)が守った、とされる曲輪。
尾根がひな壇状に造成されており、下からの敵を少人数で効率良く防御するための工夫が見られます。
金子曲輪の後はひたすら登り道。
普段運動不足の身には結構キツイ山道で、トレッキングポールを持参してきて正解だったわ。
ちなみに。。。、城跡本来の歴史探訪を目的とする八王子城跡訪問者は、全体の約半分。
残り半分の訪問者は、ウォーキングや登山を目的とする人達なんだそうだ。
なるほど、実際に歩い納得の情報だわ(苦笑)。
木々の切れ間からは、遠方に八王子の街が望める。
やがて東屋風の休憩所が建つ、開けた空間に到着。
ようやく山頂エリアに到着だ、ふぅ。
登山道入口からの所要時間は、30分程度だったと思います。
「八王子神社」は八王子地名の起源
一段高く造成された場所には、八王子神社が鎮座。
神社背後の一段高い山頂部分が本丸跡になります。
本丸を防備する曲輪として、階段手前の左手には「松木曲輪」、右手には「小宮曲輪」が配置されています。
山頂周囲や尾根には、その他にも大小の曲輪が何段にも並べられているようだ。
「八王子神社」。
妙行という僧が平安時代に深沢山に庵を建て、牛頭天王と8人の王子を祀り「八王子権現」と称したのが由緒だと伝わります。
北条氏照は築城の際に八王子権現を守護神として祀り、城を八王子城と呼ぶようになったと伝わります。
八王子神社は、八王子市の名の由来ともいわれています。
保護用の木組みに守られている本殿は、江戸時代末期に建てられたもの。
素木造りで、屋根の形が少し変わった形に見えます。
豊臣軍との死闘が繰り広げられた「本丸」エリア
八王子神社の右手の階段を上がるとそこが頂上で、本丸跡だ。
それほど広くはない平坦地だが、かつてはなんらかの建造物があったのだろうか?
一角には小さな祠と八王子城本丸跡の石碑があった。
八王子城が秀吉軍の攻撃を受けた天正18年(1590年)6月23日、加賀・前田利家を総大将とした軍勢は降参した北条勢の兵士も加えながら、数万の軍勢で攻め寄せたといわれます。
前田軍は城の正面の大手側から、上杉軍は裏手の搦手側からと、二手に分かれて攻め込みました。
対して、城主氏照不在のなか城の守備にあたったのは、横地監物(よこちけんもつ)・狩野一庵(かのういちあん)・中山勘解由(なかやまかげゆ)などの老将家臣でした。
率いた兵は、徴発された農民・職人・山伏などが中心だったようだ。
侵攻した秀吉軍に対し北条勢は奮戦しましたが、最初に搦手側から破られ、ついで大手側も陥落。
秀吉軍の精鋭軍の前に、防戦もむなしく半日ほどで落城しました。
重臣らの多くは討ち死にし、狩野と中山は自刃。
横地は尾根伝いに逃れたとも伝わります。
二の丸ともいわれる「松木曲輪」
本丸南側の「松木曲輪」は本丸とは対照的に、広々とした平坦地を持つ曲輪でした。
二の丸・中の丸とも呼ばれ、当時は中山勘解由家範が守備したと伝わります。
合戦後に、ここでの家範の勇猛ぶりが徳川家康に伝えられたそうです。
それに感銘した家康は、遺児となった家範の子である中山照守と中山信吉を召抱えた、という後日談が残ります。
松木曲輪は視界が開けた場所で、山々の眺望が望めます。
ベンチやテーブルもあり、多くの方々がこちらでお弁当を広げつつ休憩されていました。
付近にはトイレも設置されています。(非水洗で、あまり綺麗ではありませんでしたが。。。)
上杉軍の奇襲で落とされた「小宮曲輪」
本丸の北側にある「小宮曲輪」。
かつては神社があったようで、狛犬がお出迎えです。
こちらの曲輪は三の丸とも呼ばれ、狩野一庵が守っていたと伝わります。
合戦では搦手口側から侵攻した、上杉軍の奇襲により攻め入られたといわれる。
その際、搦手に面したこの小宮曲輪では、激しい争いが繰り広げられたことでしょう。
松木曲輪とは対照的に奥まってひっそりとした場所にあり、いにしえの古戦場の雰囲気を感じさせます。
旧道から石積を見上げる
下山は、新道と並行して谷側に続いている「旧道」を歩いてみた。
見上げた新道の谷側に、ビッシリと並ぶ石積みを発見。
新道は北条の時代には無かった道らしいので、江戸時代のものか、はたまた、もっと後世のものか?
道は進んで行くにつれ、徐々に草むらに囲まれた細い道に。。。
他に人通りもないし、道を間違える箇所も特になかったよなぁ、などと少し不安に。
やがて登った際の入口が見えてきたよ、ほっ!
大軍では攻め入りづらい道であったことを体感できたわ。
この後、管理棟の隣の「城跡茶屋」で、焼きおにぎりをパクつきつつ一服して後半戦に備えました。
【居館地区】発掘・復元が進む「御主殿跡」
復元された古道をゆく
引き続き山麓側の「居館地区」をめぐります。
居館地区は城主・北条氏照の居館跡である「御主殿跡」と、有力家臣の屋敷跡である「アシダ曲輪」からなります。
ちなみにアシダ曲輪は一部私有地になっており、居館地区からの見学はできないようでした。
かつて天然の堀として利用された城山川を越えますが、現在は水量が少ない感じ。
開けた空間の先に見える堀切。
見学者用の橋が架かりますが、かつては敵の侵攻時には取り外しができる、簡易的な木橋だったことが想像できます。
橋の手前のこの辺りは、かつての大手門跡なんだそう。
発掘された礎石や敷石から、薬医門と呼ばれる形状の門だったようだ。
門の外側は立入り禁止だったが、山道のような、当時の大手道の形状を残している部分かと思われる。
大手門の内側には、平成2年に御主殿周囲の石垣や虎口が整備された際、見学者向けに整備された古道が続きます。
落城後の八王子城跡は、江戸時代になると幕府の直轄地となりました。
さらに明治時代には国有林になったため、あまり人の手が入らない地域でした。
そのため、御主殿周辺の遺構は比較的良好な形で残っていたとのこと。
城山川に架かる曳橋
古道の先に、対岸の御主殿側に渡るための木橋がど~んと現れます。
この両岸の斜面では、当時の橋台の石垣が発見されている。
現在は見学用の頑丈な橋が架かりますが、こちらもかつては曳く(引く)とすぐに壊せる、簡易的な橋が架かっていたとされます。
橋の上からは対岸の御主殿虎口側が丸見えですが、当時の橋はもっと低い位置に架かっていたようです。
それでも対岸までは結構な距離があるので、簡易的な木橋といえども、架けるのも壊すのも相当な労力を伴ったでしょうねえ。
石垣と敷石で囲まれた「御主殿虎口」
対岸に渡ると、ビッチリと積まれた石垣が視野に入ってくる。これはなかなか圧巻だ。
虎口周辺の石垣や石畳は、発掘当時のものが多く活用されているとのこと。
破損個所も、できるだけ当時の形に忠実に復元がされているそうだ。
このあたりの石垣なんかは、築城当時のままなんだそうだ。
戦国時代の石垣が、これだけ綺麗に残っているのは貴重。特に関東では珍しいのでは?
整形しない石を野面積みし、隙間に小石を詰めて固定。
丁寧に積み重ねられており、美しい石垣です。
石垣の裏側には砕いた石が沢山入っており、水捌けにも考慮されていたようだ。
虎口に向かう道は先で左手に直角に折れており、虎口内を見通すができない。
そして左手に折れると「御主殿虎口」の階段通路が現れる。
鉄砲や弓を持った城兵が、高い位置で待ち伏せている様子が目に浮かびますねえ。
虎口は石垣で囲まれたうえに全面的に敷石がされ、堅牢で強固な造りなのが特徴的。
階段は25段、階段上面の奥行きは平均1m。
段の高さは36cm、横幅は約5mである。
虎口全体は「コ」の字形に折れ曲がっており、侵入者側からは見通しが悪い。
階段中間地点の踊り場では、4つの礎石跡が発見されている。写真は礎石の実物。
これにより、物見櫓、または櫓門などの建築物があったと考えられます。
直角に曲がり登り切りった所に冠木門(かぶきもん)が建ち、御主殿エリアの入口となっていました。
「御主殿・会所跡」からは7万点の遺物が出土
御主殿エリアには「主殿」と「会所(かいしょ)」と呼ばれる、2つの大型の建物があったことが分かっています。
発掘調査では、それぞれの礎石跡が検出されています。
こちらは北条氏照の居館とされる、御主殿の礎石跡。
政務の中心となった平屋建ての建物で、広間や城主が座る”上段”などがあったとされます。
建物の広さは15間半×10間(29.4m×19.8m)で、写真の手前部分には「折中門(おれちゅうもん)」と呼ばれる玄関口がありました。
御主殿の復元整備においては、遺構の上に60cmの盛土を実施。
その上に建物の礎石・庭石・敷石等を忠実に再現して表示しているとのこと。
見えている部分は復元で、その地中に遺構を保存しているということなんですね。
こちらは御主殿に隣接して建っていた、会所の建物の跡。
ここは宴会などがおこなわれた場所だった、と考えられています。
広さは御主殿より少し小さい11間×6間(20.9m×13.3m)。
想定される床面を再現し、敷居や間取りが表されています。
会所と主殿の建物に囲まれた場所では、池を配した庭が見つかっています。
写真で見えている置石箇所は、枯山水跡とも考えられています。
御主殿の発掘調査では、約7万点を超える遺物を出土。
中国等から運ばれてきた色鮮やかな多くの舶載磁器(はくさいじき)の皿のほか、茶道具や戦国時代では珍しいベネチアで作られたレースガラス器なども発見されている。
戦乱の合間でも、庭園を見ながらの宴会や茶のたしなみなど、風流な暮らしぶりを取り込んでいたことがうかがえます。
建物周辺には水路跡。
「御主殿の滝」 水は三日三晩赤く染まった
御主殿の南側にあった出口で、城山川沿いの道に下ってきた。
こちらの山道は、江戸時代に造られた道とのこと。
その道沿いにあるのが、こちらの「御主殿の滝」。
八王子城が秀吉軍により落城した際、御主殿にいた女性や子供、将兵たちが滝の上で自刃し、次々とこの滝に身を投じたと伝わる悲劇の場所だ。
その血で城山川の水は三日三晩赤く染まった、と伝わります。
悲しい出来事ですね。
現在の滝は、わずかに水が認められる程度の水量でした。
滝の脇には慰霊碑とおぼしき石碑。
凄惨な戦いの歴史を持った城郭であったことを、改めて思い起こさせます。合掌。
【根小屋地区】北条氏照の供養塔
ガイダンス施設から程近い場所に北条氏照の供養塔があるので、最後に立ち寄り。
裏手の少し外れた場所にありますが、順路が出ているので道に迷うことはないかと。
そして、むむっ!最後に登るのがキツそうな坂が再び登場。
頑張れ、俺。。。
登った先の一角にあるのが、こちらの墓所。
中央が北条氏照の供養塔。
中山信吉の子(中山勘解由の孫)である水戸藩家老・中山信治が、死後100年忌の追善供養のために建てたもの。
中山勘解由の子は徳川家康に取り立てられた後、照守は旗本に、信吉は水戸藩付の家老にまで出世しています。
氏照の供養塔の両脇には、勘解由と信治の墓(供養塔かな?)があります。合掌。
なお、ガイダンス施設から東に600m程離れた「宗関寺」には、信治が100回忌の際に寄進した鐘が残っています。
北条氏照及び家臣墓
住所:東京都八王子市元八王子町3丁目2653(GoogleMapで開く)
※ガイダンス施設から歩いて4~5分(約300m)。
関東周辺の山城攻めをトレッキング視点でまとめた、ありそうでなかったタイプの城攻め本。
これから山城歩きをする人は、東京都にもタフな山城があったりするのには超驚くと思いますよ!
八王子城跡の詳細情報・アクセス、御城印情報
八王子城跡
公式ページ
住所:東京都八王子市元八王子町3-2664-2(GoogleMapで開く) *住所はガイダンス施設の住所
電車)
・JR「高尾駅」北口1番バスのりばより、西東京バス「高尾の森わくわくビレッジ」「宝生寺団地」「恩方ターミナル」「大久保」「大久保・陣馬高原下」「グリーンタウン高尾」「美山町」行きで、バス停「霊園前・八王子城跡入口」下車、徒歩約20分。
*土曜日・日曜日・祝日のみ、JR「高尾駅」北口1番バスのりばより「八王子城跡」行が運行。
車
・圏央道「八王子西IC」高尾方面へ約10分。
・中央道「八王子IC」第2出口から、甲州街道経由で約40分。
・駐車場あり(ガイダンス施設隣接)※開場時間は9時から17時まで。
御城印の販売について
販売場所:桑都日本遺産センター 八王子博物館(公式ページ)
価格:300円
休館日:公式ページでご確認下さい。
購入方法:
日本100名城スタンプなど、現地を訪問したことがわかるものの持参が必要。(無い場合は、販売場所でクイズに回答すると購入可。)
※一人1枚まで購入可。
※城跡現地での販売はありません。
※郵送での購入方法:郵送による購入希望書が現地に設置されています。
※滝山城跡の購入方法も八王子城と同様。
住所:東京都八王子市子安町四丁目7番1号 サザンスカイタワー八王子3階(GoogleMapで開く)
アクセス:JR八王子駅南口から駅直結、京王八王子駅から徒歩8分
いずれ現地で購入できるようになることを、切に願います。。。
八王子のランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
八王子城めぐりに出かけませんか?
広大な範囲におよぶ八王子城跡は、非常に見応えと歩き応えのある城跡でした。
石垣・石積みが多用されている関東では珍しい山城で、近世の城への過渡期を感じさせるような、戦国時代後期ならではの城跡でした。
今回一日で一通りめぐってみましたが、時間的にも体力的にも結構忙しい感じでした。
要害地区と居館地区に分けて訪問すると、さらにジックリとめぐれそうな印象でした。
自然散策スポットとしてもオススメできる、八王子城跡を歩いてみませんか?
記事の訪問日:2022/11/3
八王子周辺の立寄りスポットを探して予約しよう!割引プランも!
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