箕輪城は榛名山の山麓に築かれた、戦国時代の平山城です。
長野氏が築城し長らく不落を誇るも、武田信玄により落城。その後は織田氏・北条氏・徳川氏と支配者が目まぐるしく移つり変わった、まさに戦乱の城でした。
現在は徳川氏時代の城主・井伊直政が築いた巨大な大堀切や空堀、石垣などの遺構が良く残っており、100名城の一つにも数えられています。
目次
長野氏が築城、支配者が多く移り変わった戦乱の城
100名城スタンプを頂き城下町を歩く

箕輪城(みのわじょう)跡へは、JR高崎駅からバス利用でアクセスしました。
箕輪城は日本100名城の一城なので100名城スタンプを頂きたかったのですが、残念ながら城跡現地には設置されていないんですね。
ということで城跡入口より少し手前のバス停・箕輪支所で下車して、箕郷支所に立ち寄ってスタンプを頂くことに。
休日につき支所は閉館日でしたが、裏手の管理人室で無事にスタンプをお借りできました。
箕輪城跡のパンフレットも頂戴でき、最寄りの登城口への道順も親切に教えて頂きました。ありがとうございます!

では箕輪城跡へ向かいます。
7か所ある城址の入口はいずれも主郭部分に通じているので、今回は南側の「観音様口」から攻めてみます。
支所からは道なりに北へ1.5km程度歩いた場所。入口手前の箕輪小学校を目安にすれば、迷わないのではないかな。
道中通った矢原地区には、かつての城下町の面影が残っていました。

矢原地区にある一際大きな木造古民家は「箕郷矢原宿カフェ」。
こちらは大正期の養蚕住宅をリノベしたもので、地域の憩いの場として、また箕輪城跡訪問時の休憩所として令和2年に開館されものなんですって。
ちなみにこちらにも日本100名城スタンプが設置されていました。
箕郷矢原宿カフェ
住所:高崎市箕郷町矢原1650番地(GoogleMapで開く)
開館時間:10時~16時(ラストオーダー15:30)
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
榛名山山麓に築かれた縄張り

二の丸の案内図より
登城前に箕輪城の立地と縄張りを確認しておきましょう。
箕輪城の立地概要
箕輪城は榛名山(はるなさん)東南の山麓の丘陵地を中心に、北東と南西の平地部を含んだロケーションに築かれた戦国時代の平山城です。城郭の敷地範囲は東西約500m・南北約1,100mに及びます。
標高280mの霊置(たまき)山を起点に、南東方向にのびる尾根上に本丸などの主要な曲輪を配置。
その周辺にも多数の曲輪が置かれ、各曲輪の間は空堀などで区画されています。
城郭の構造は、本丸の2~3方を二の丸が囲み、さらにその周囲を三の丸が取り囲む梯郭式(ていかくしき)の縄張りです。
空堀などを中心に当時の遺構が良く残っており、国指定史跡となっています。
観音様口から大手尾根筋を進む

20分ほど歩くと「慈眼院 法峰寺」という寺院に到着。こちらは駐車場もあるので、車でのアクセスもOKです。
その法峰寺境内の脇にあるのが、こちらの観音様口。マジか。。。いきなりキツそうですね(苦笑)。意を決してズンズンと登り始めましたよ。

石段の上には観音堂がありましたが、その先も階段は少し続きました。
やがて少し緩やかな「大手尾根筋」に入ります。その名の通り、この辺りは大手口に近いエリアとなります。
周辺には腰曲輪などがあるようですが、木々が茂っており正直確認しづらかったです。

10~15分くらい歩くと空堀に架かる土橋が現れ、その先で中央の見学コースに合流しました。
最後の城主は徳川四天王の一人 井伊直政

本丸の箕輪城跡碑
箕輪城は戦国時代の上野国(現、群馬県)では屈指の規模を誇った城郭ですが、激戦区にあったことから歴代城主が何度も変わっているのが特徴です。
箕輪城の歴史概略
■西暦1500年前後の戦国時代中期に、当地を支配していた長野業尚(なりまさ)が築城した後、4代にわたり長野氏の本拠地となります。
■長野氏は武田信玄の侵攻に抵抗を続けますが、永禄9年(1566年)についに信玄に箕輪城を落とされます。
■その後は武田氏(1566~1582年)、織田氏(1582年)、小田原北条氏(1582~1590年)、徳川氏(1590~1598年)と城の所有が移る。その都度、各大名の有力家臣が城主に配置されました。
■最後の城主は井伊直政(いいなおまさ)で、徳川家臣としては最大石高の12万石で封じられました。
■慶長3年(1598年)に井伊直政の高崎城への移城に伴い、箕輪城は廃城となります。
現在残る遺構の多くは、近世の城へ改築をおこなった井伊直政の時代のものです。
井伊直政(1561-1602年)
戦国時代から江戸初期にかけての武将で、徳川家康の四天王の一人に数えられる名将。
遠江国井伊谷(現・静岡県浜松市)に生まれ、若くして家康に仕え、その勇猛さから「赤備えの井伊」と称されました。関ヶ原の戦いでは東軍の主力として奮戦。
戦後は上野国高崎藩の初代藩主、後に近江国彦根18万石を与えられ彦根藩初代藩主となります。
政治・軍事の両面で家康を支え、徳川幕府成立の基礎固めに貢献しました。
「木俣曲輪」家臣団の屋敷地

中央の見学コースに入ると、まずは「木俣」と呼ばれる曲輪がありました。
ここは家臣団の屋敷地の一つだった、と考えられています。

曲輪は斜面のヘリにあり、尾根側からの侵入者を見張るには絶好の立地ですね。
「大堀切」全国でも最大級の規模を誇る

木俣の先に、箕輪城跡のシンボルでもある「郭馬出(かくうまだし)西虎口門」が見えてきました。
本丸を中心とした主郭部分は広大な空堀に囲まれていますが、この登坂の細い土橋はその主郭への限られた入口の一つで、重要な防衛ラインとなります。
櫓門周辺にいる城兵が、侵入者に横矢の狙いを定めている様が思い浮かびますよね。

郭馬出内部に進む前に、西側にある大堀切の底に下ってみました。
ご覧の通り堀の深さは結構ありますよ。

こちらが幅約30mで深さは約9mあるという、大堀切の堀底。
城を南北に二分するこの大堀切は、三の丸の西側を囲むように続きます。
箕輪城の堀切・空堀は同時代の城と比較しても、全国規模の大きさを誇るとのこと。

大堀切の堀底から郭馬出側を見上げています。
このあたりは郭馬出と二の丸をつなぐ、大堀切唯一の土橋がある部分です。
斜面で石垣が発見されていますが、これは外敵に備える防御とともに、土砂流出を抑える補強の役割を兼ねたものとみられています。
ちなみに地上に見えている石垣は復元物で、遺構はその下に埋まった状態で保存されているとのこと。
「郭馬出」井伊直政時代の櫓門を復元

郭馬出西虎口門跡で発見された井伊氏時代の礎石の配置から、2階建ての櫓門があったと考えられています。
それに基づき、平成28年(2016年)に同時代の門を参考にした櫓門が復元されました。
2階部には石落としが設置されていた、と考えられています。

門の先にある郭馬出は、東西52m・南北に27mの比較的小さな曲輪でした。
元々高さがあるのに加えて曲輪周囲に土塁が築かれているため、敵兵側からは曲輪の規模や内部の様子を見ることができません。

郭馬出の先の二の丸側から振り返って望んだ、郭馬出の全景。
密かにここに兵を集め、南側の敵を一気に奇襲!そのような戦法を想定した曲輪だったといわれます。
右手に白い道部分が見えますが、この辺りが先程大堀切の底から見上げた土橋部分です。
関東と信濃・越後方面を結ぶ要所の地だった

郭馬出を抜けた先に広々がるのは「二の丸」。
本丸手前に位置する四方が約80m程ある曲輪で、ここは出撃のための兵を集める拠点として使われたとされます。

二の丸には東屋風の休憩所やバイオトイレなどが設置されているので、ここでようやく一息。
ちなみに城跡内には自動販売機等の設置はないので、飲み物などはしっかり持参することをオススメします。

二の丸の東側は視界が開けており見晴らしが良い。遠方に見えるのは赤城山ですね。
箕輪城は三方に天然の深い谷という要害を持つ一方、城下を一望でき守りやすい地形にあります。
さらに、関東と信濃・越後方面を結ぶ要路が集まる位置にあるため、北関東における要衝とされたわけです。
「本丸」広範囲に残る井伊直政時代の土塁

本丸の南虎口手前にも、「馬出し」が設けられていました。

そして城の中心部だった「本丸」へ。本丸は南北約100m・東西約70mに渡る広い平坦地です。

一角には、箕輪城跡の史跡碑と城の歴史を記した石碑がありました。石碑は陽の光で光って読みづらかった。。。

本丸東側には土塁があり、ずっと奥まで続いています。
土塁の高さはそれ程ありませんが、ここ自体高い場所にあるので目隠しの役割としては十分なんでしょう。
本丸の縄張りの形状は、時代により大きく変化したようです。
本丸の縄張りの変遷
長野氏・武田氏の時代には、本丸の北側と南側には空堀がありました。
これが小田原北条氏の時代には大きく拡張され、本丸の北・西・南を取り囲む形になります。
井伊直政の時代にはさらに東側にも空堀が造られ、本丸の四方は空堀に囲まれました。
また空堀の東側を延長する形で、この先にある御前曲輪側も空堀で囲まれました。
井伊氏時代になると、御前曲輪はより本丸の一部として扱われるようになったようです。
本丸堀に架かる木橋を復元(本丸西虎口)

最初に入って来た本丸の入口は南虎口でしたが、本丸への入口は他に北虎口と西虎口があります。
なかでも最大の間口幅を持っていたのが、こちらの西虎口です。
空堀を挟んだ対面には「蔵屋敷」と呼ばれる曲輪がありましたが、そこからは唯一木橋を渡って入る虎口でした。
空堀から橋脚用の2石の礎石が見つかっており、これを元に当時の意匠による木橋が造られました。
造られたのは令和4年とのことなので、結構最近にできた橋なんですね!

こちらは本丸北側と御前曲輪とを隔てる空堀で、これも井伊氏時代のもの。
「御前曲輪」信玄に敗戦し長野業盛が自刃した地

本丸の一部の位置付けだった「御前曲輪」入ります。曲輪の南西角には、かつて物見櫓があったようです。
ちなみに箕輪城には天守はありませんでした。

御前曲輪の一角にある箕輪城将士慰霊碑。
長野氏の時代、度重なる武田信玄の侵攻を阻んできましたが、永禄9年(1566年)、武田氏の大軍の前についに箕輪城は討ち落とされます。
落城の際、城主・長野業盛(なりもり)は御前曲輪の持仏堂にて自刃し、一族や従者の多くもその後を追ったといわれています。

昭和2年の豪雨で地盤沈下が起きた際、こちらの古井戸が新たに発見されました。
深さ20mに及ぶ井戸の底からは、長野氏累代の五輪塔などの墓石が多数掘り出されたとのこと。
どうやら祖先の墓が辱めを受けぬよう、敗戦時にこの井戸に放り込んだものらしいですね。
御前曲輪は激しい合戦と、長野氏敗戦の記憶が眠っている地でもありました。合掌。
本丸を囲む巨大な本丸堀

御前曲輪から階段で下りると、本丸を囲む本丸堀の中を歩けます。
空堀の幅は約30~40mで、高さは約10mあるこちらもかなり大規模な空堀ですね。
試掘調査ではさらに6m以上埋まっている箇所が発見されているので、当時はもっと深さがあった様ですよ。

南に進み本丸西虎口に架かる木橋の下を通過。
この辺りはおそらく架橋を意識してか、他と比べて堀幅が一番狭い箇所とのこと。
「三の丸」井伊直政時代の石垣が残る

空堀は、本丸の南西に位置するこちらの「三の丸」に通じていました。
三の丸は小田原北条氏時代には、鍛治場として利用されていたらしいです。
小田原北条氏時代には、北条氏邦などが城主を務めました。
天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐の際には、箕輪城も北条氏の支城として前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃を受け開城しています。
合戦に関する詳細情報が見当たらないことから、激しい戦いもなく開城されたのでは?と想像しています。

井伊直政時代になると三の丸の南西側が盛土され、石垣が築かれました。
その当時の石垣が多く残っています。

積み方は、加工しない石をそのまま積上げる野面積み。
丸っぽい石の形状からも分かる通り使われているのは河原石で、城の西側を流れる榛名白川から運び上げられたものと考えられています。

三の丸西側の「鍛冶曲輪」入口にも、石垣が綺麗に残っていました。
発掘では三の丸以外の主要箇所でも多くの石垣が発見されており、現在も南側の大手門から本丸に向かうルートに石垣が多く残っているようです。
関東周辺の山城攻めをトレッキング視点でまとめた、ありそうでなかったタイプの城攻め本。
これから山城歩きをする人は、東京都にもタフな山城があったりするのには超驚くと思いますよ!
箕輪城跡の詳細情報・アクセス、100名城スタンプ設置場所
箕輪城跡
住所:群馬県高崎市箕郷町東明屋(GoogleMapで開く)
搦手口へのアクセス:
電車)
・JR「高崎駅」西口より、群馬バス・箕郷行乗車にて約30分、「箕郷本町」下車で徒歩約20分。又は、伊香保温泉行乗車にて約30分、「城山入口」下車で徒歩約15分。
車)
・関越自動車道「前橋IC」から史跡箕輪城跡駐車場まで約11km。
・無料駐車場あり。
日本100名城スタンプ設置場所
※城跡現地にスタンプは置いていないので注意。
■高崎市箕郷支所 受付窓口
住所:高崎市箕郷町西明屋702-4(GoogleMapで開く)
開館時間:8:30~17:15
電話:027-371-5111
休日対応:休日は右手に回った裏手にある、管理人室でスタンプを借りることができます
アクセス:
電車)JR「高崎駅」西口より、群馬バス・箕郷行乗車又は伊香保温泉行乗車にて約30分、「四ツ谷」下車にて徒歩約2分。
車)駐車場あり
■高崎市箕郷公民館
住所:高崎市箕郷町西明屋421-3(GoogleMapで開く)
開館時間:9時~175時
休館日:祝日、年末年始(12月29日~1月3日)、その他臨時休館する場合あり
電話:027-371-3152
アクセス:*高崎市箕郷支所と同じ
■箕郷矢原宿カフェ
住所:高崎市箕郷町矢原1650番地(GoogleMapで開く)
開館時間:10時~16時
休館日:月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)、年末年始(12月29日~1月3日)
アクセス:
電車)JR「高崎駅」西口より、群馬バス・伊香保温泉行乗車にて約40分、連雀町(箕郷)
下車、徒歩約2分
車)駐車場あり
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・上信越自動車道「松井田妙義IC」から約15分

箕輪城跡を歩きませんか?
かつての遺構はかなり綺麗に残っており、とでも歩き応えがある城跡でした。
ただ城跡は広範囲にわたっているため、隅々まで見るには少し時間が足りなかったですね。
時間に余裕を持っての訪問をお勧めします。
箕輪城跡を歩きにでかけませんか?
記事の訪問日:2024/5/3



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