さいたま市岩槻区にある「慈恩寺」は平安時代に慈覚大師が開基したとされる古刹で、かつては塔中66ヶ坊を有する大寺院でした。
鎌倉時代には源頼朝の発願により整備された坂東三十三観音の第12番札所となり、今も多くの参拝者が訪れています。
そんな慈恩寺には、西遊記で知られる玄奘三蔵(三蔵法師)の骨を納めた霊骨塔があるというんですね。何故そこに!?
慈恩寺と玄奘三蔵霊骨塔の歴史を紐解きつつ、見どころを紹介します。
目次
「慈恩寺」平安時代に慈覚大師(円仁)が開基した古刹

さいたま市岩槻区の「慈恩寺(じおんじ)」がある場所は岩槻の市街地からはやや離れており、電車の最寄り駅はというと、お隣の春日部市にある東武線・豊春駅となります。
境内は畑に囲まれた台地上に位置しており、とても静かな立地ですね。
入口にある元禄4年(1691年)に建てられたとされる古い山門をくぐり、境内へ。

山号を華林山と称する慈恩寺は、天長元年(824年)に天台宗山門派の祖である慈覚大師(円仁)によって開基された古刹です。
慈覚大師が開基した寺院は数多く、関東に約200寺・東北に約330寺あるといわれます。これはなかなか凄い数ですよね!
その中でも当院の名は、自らが学んだ唐の長安(現、西安)の大慈恩寺にちなんで命名されており、特にゆかりの深い一寺といえそうです。
最盛期を迎えた中世においては13万5千坪に及ぶ広大な境内を持ち、塔中(小寺院や別坊)66ヶ坊を有する大寺だったとのこと。
しかしその後は戦国時代の戦乱などもあり、徐々にその規模は縮小されていったそうです。
慈覚大師(円仁、794~864)
平安時代前期の天台宗の僧で、比叡山延暦寺第3代座主。
下野国(現、栃木県)の出身で、若くして最澄の門下に入り天台教学を学びます。
承和5年(838年)に遣唐使に随行して入唐し、密教・天台教学・戒律などを幅広く修得。
この留学体験は”入唐求法巡礼行記”に記され、当時の唐や東アジア情勢を知る貴重な史料となっています。
園城寺(後の三井寺)や山形の立石寺(山寺)などの開創にも関わり、天台宗の地方展開を推進した高僧として知られます。
坂東三十三観音の第12番札所

本堂(観音堂)
慈恩寺は「坂東三十三観音」の第12番札所になっていることもあり、参拝者も多く訪れています。
坂東三十三観音について
鎌倉時代初期に開設された札所で、源頼朝が発願し、その子である源実朝が制定したと伝わります。
多くの関東武者が源平合戦などで西国に遠征した際、当地で見聞した”西国三十三所”が模範となっているとされます。
鎌倉を出発地とし、関東7県(神奈川県・埼玉県・東京都・群馬県・栃木県・茨城県・千葉県)の各地33か所に点在。全道程が約1300kmと広範囲にわたっているのが特徴です。
制定においては戦乱の世における死者への弔いの念の高まり、といった時代的な背景もあったんでしょうね。
\ 他にもある埼玉県内にある坂東三十三観音の寺院 /
江戸時代には徳川家康から寺領100石を拝領

天正19年(1591年)になると徳川家康が関東に入封しますが、その際、有力寺院に対して寺社領の寄進をおこないました。
慈恩寺に対しては石高100石という高い寺領が寄進されており、特に重要視されていた寺院だったことが伺えます。
徳川家康が亡くなり日光社参が始まると、日光御成道沿いにあった岩槻城が徳川将軍の宿泊地となります。その際には、徳川将軍による慈恩寺への立ち寄りもあったそうですよ!
寛永17年(1624年)に徳川3代将軍・家光が慈恩寺で昼食をとった記録が残っています。
日光社参とは?
徳川家康を祀る日光東照宮を、将軍家が参拝する巡礼行事です。将軍の行列は、江戸から日光へ向かう専用街道である日光御成道を通行しました。
江戸時代を通じて社参は合計19回実施され、6名の徳川将軍が社参をしています。
それぞれ、2代将軍秀忠が4回、3代将軍家光が10回、4代将軍家綱が2回、8代将軍吉宗が1回、10代将軍家治が1回、12代将軍家慶が1回です。
\ 岩槻城の詳細についてはこちら!/

天保14年(1843年)に建てられた現在の本堂は、以前の本堂が天保7年(1836年)に焼失したのに伴なって再建されたものです。
御本尊には木造の千手観世音菩薩坐像が祀られています。
これは慈覚大師作の御本尊が焼失した際、寛永年間(1624~1643年)に天海僧正が比叡山より招来したと伝わるもの。

本堂前のびんずる尊者
天海僧正といえば、江戸時代初期の徳川将軍家の側近として知られる人物ですよね。
川越喜多院を拠点として、関東一円の天台宗寺院を統括していました。
その喜多院も慈覚大師創建の天台宗の寺院なので、慈恩寺に対しては天台宗布教の一端を担う重要な役割を期待しての支援があったのでは?
徳川家康から寄進された寺領100石も、天海僧正による采配だったことでしょう。

住職が住む建物である本坊は、昭和に建てられたもの。
小田原北条氏時代に奉納された灯籠

本堂の脇にある灯籠は天正17年(1589年)に奉納されたもので、ポルトガル・オランダなどの外国から輸入された南蛮鉄を使ったものというのが珍しい。
寄進者は小田原北条氏時代の岩槻城主・北条氏房の家臣である伊達房実。
岩槻城の安泰を祈願して寄進されたものですが、北条氏が翌年に豊臣秀吉の小田原征伐で滅ぼされていることを考えると、戦乱の時代の哀れを感じさせますねえ。
北条氏以前の岩槻城主である太田資正(すけまさ)による古文書なども多く残されています。

こちらの「銅造阿弥陀如来坐像」は、”八百屋お七”で知られる天和2年(1682年)の江戸の大火の被災者供養のために造立されたものとのこと。
台座には宝永7年(1710年)の奉納であることが銘記されています。
天和の大火について
天和2年(1682年)に江戸本郷の本妙寺付近から出火した江戸の大火。
乾燥と強風、そして木造家屋の密集により火は江戸市中に燃え広がり、多数の家屋や寺社が焼失。死者は3,500人以上に及んだといわれます。
”八百屋お七”の話はこの大火の事後の話で、火事の避難先の寺で恋に落ちた八百屋の娘・お七が、「再び火事になれば彼に会える」と思い詰めて、放火未遂を起こし処刑されたという悲話。
天和の大火とセットで語られることが多い話です。

山門の近くには聖徳太子像を祀る「聖徳太子堂」があります。
日本仏教の興隆に大きく貢献した聖徳太子は、宗派を問わず多くの寺院で信仰されています。
西遊記で知られる玄奘三蔵の霊骨塔がある!?
中国寺院風の建物が現れた

そして慈恩寺の境内から少し離れたところに、「西遊記」で知られる玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)(三蔵法師)のお骨を納めた霊骨塔がある、というので立ち寄ってみました。
なぜここに玄奘三蔵のお骨が?という疑問符を抱きつつ。。。
慈恩寺からは400~500m程離れた真南の位置にあります。
車での訪問でしたが直線で行ける道路はないため、グルっと迂回して向かうことに。徒歩の場合は直進して向かえるのか?は未確認です。
やがて高台の畑地に囲まれた一画に、寺院のような雰囲気の場所が現れました。

入口には中華街で見かけるような、牌楼(ぱいろう)と呼ばれる中国様式の門が立っています。

玄奘塔と書かれた額の両側には、龍の彫刻が施されています。

門をくぐった先に玄奘三蔵の銅像がありました。
ここで玄奘三蔵はどんな人物だったのか?おさらいしておきましょう。
玄奘三蔵(602~664年)
玄奘三蔵(三蔵法師)は中国・唐代の僧侶で、仏教研究と経典翻訳に大きな功績を残した人物です。
仏教の教えを深く追究するため、インド(天竺)への旅に出発。ナーランダー僧院などで仏教を学び、17年間にわたる過酷な旅を経て膨大な数の経典を中国に持ち帰り、その後の人生を漢訳作業(訳経)に捧げました。
この旅の記録は「大唐西域記」としてまとめられており、これが後に有名な物語「西遊記」のモデルとなったそうなんですね。
玄奘三蔵の頂骨が納められている十三重塔

そして奥に進むと「玄奘三蔵霊骨塔」と呼ばれる、高さ15mに及ぶ十三重の立派な石塔が立っていました。
ここに玄奘三蔵の、頂骨と呼ばれる頭蓋骨の上壁をなす骨が納められているというんですね。
にわかには信じがたいですが、これには戦時中における複雑な経緯がありました。

玄奘三蔵の頂骨が慈恩寺に納められた経緯
■昭和17年(1942年):
・第二次世界大戦中、南京を占領していた日本軍が丘を整地していた際に石棺を発見。石棺には、天聖5年(1027年)に三蔵法師の頂骨が長安から南京にもたらされたことが記されていた。日中両国の調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨そのものであることが確認されます。
・頂骨は副葬品と共に南京政府に返還されますが、昭和19年に南京に玄奘塔が完成し式典が行われた際、分骨され日本仏教徒代表に手渡されました。霊骨は来日当初、東京芝の増上寺に安置されました。
しかし第二次世界大戦の空襲を避けて、埼玉県蕨市の寺院・三学院に疎開。その後さらに慈恩寺に疎開しました。
■昭和21年(1946年):
・終戦後改めて中国への霊骨の返還も検討されたが、蒋介石主席の「霊骨は返還に及ばない」との意向が確認され、正式に慈恩寺への霊骨塔建設が決定。
■昭和25年(1950年):
・塔の礎石を据え終わり納骨式が挙行されました。
お骨が当地に来た背景には慈恩寺が長安とゆかりのある寺院だったこと、さらに慈恩寺の住職が日本仏教会の事業部長を務めていた、といった事情もあったようです。
なるほどねえ。
ちなみに石塔の石材である花崗岩の石組は、東武鉄道社長であった根津嘉一郎氏から寄贈されたものとのこと。

敷地内にあるこちらの大摩尼車(だいまにぐるま)は、平成26年(2013年)の玄奘三蔵法師1350年御忌を記念して納められたもの。
釈尊生誕の地・ネパールにて製作されたもので、内部に玄奘三蔵訳「般若心経」の写経を納めることができるとのこと。表面には古代インド文字である梵字が刻まれています。
摩尼車は回した回数分だけお経を唱えたのと同じ功徳が得られる、とされる仏具です。
文字が読めない庶民でも読経の功徳を得られるように、という配慮から考案されたものらしいですよ。

さらに大きな石灯籠が2塔、対になって置かれていました。

石灯籠に彫られた徳川11代将軍・家斉(いえなり)の諡号(しごう)(戒名)である”文恭院”の名と、武州東叡山、天保十二年などの文字が読み取れました。
どうやら徳川家斉が天保12年(1841年)に亡くなった際、墓所である上野の寛永寺に奉納された石灯籠のようですね。
移されてきた経緯は定かではありませんが、徳川将軍家の菩提寺であった寛永寺との繋がりもあったようです。

こちらの亀を形どった石も気になりましたが、詳細は不明。
坂東三十三観音と他の寺をあわせた、関東の百寺を紹介。
「地球の歩き方シリーズ」なのでしっかりした内容!
タモリさんならではの視点で、大宮の歴史が解き明かされてゆきます。
読めば出かけてみたくなるはず!
慈恩寺の詳細情報・アクセス
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記事の訪問日:2024/10/1
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