日本100名城の一つに数えられる佐倉城は、徳川家康の命によって整備された、江戸の東に位置する要衝の城でした。
城主になった大名からは、全国の藩の中でも最多を誇る9名もの老中を輩出しており、このことからも当時の佐倉城の重要性が伺えます。
自然の地形を生かした立地に加えて、土塁や空堀で防御を固めていた堅牢な城でした。多くの土塁や空堀が復元された城址公園を歩いて、佐倉城を体感します。
目次
「佐倉城跡」 土塁や空堀で守られた広大な城郭
「大手門跡」 枡形門と空堀・土塁による堅固な入口

本日は京成佐倉駅からのアクセスですが、途中「佐倉武家屋敷」に立ち寄った後に佐倉城城址公園に向かっています。
佐倉武家屋敷は関東に残る武家屋敷群としては、最大規模のものとして貴重です。佐倉城の訪問時には是非立ち寄ってみて下さい。
城址公園の少し手前まで来ると、城郭の正面入口にあたる「大手門跡」が現れます。

当時は空堀と土塁が門の側面を固めていました。
調査により、その幅は13~17m、深さは3.5m以上、長さは南北約120mに及ぶことが判明。その空堀と土塁の一部が復元されています。堀は浅めに復元されているようですね。
明治時代に廃城になった後には、陸軍歩兵連隊の兵営所が設置されます。その際、城内の建物は取り壊されて、敷地は造成されました。
大手門も土塁は壊され、空堀の大半は埋められていたそうだ。

大手門には、入口四方を土手や壁で囲み敵の直進を阻む、「升形」と呼ばれる空間が造られていました。
案内板の絵図を見ると枡形に至る通路も鉤の字状で、外敵に対して堅固な造りだったようです。
佐倉城に関して興味深い点の一つは、建物が取り壊される直前の古写真が多く残っていること。城内の配置を描いた絵図や文献も残っています。
大手門には屋根にシャチホコがのった、立派な2層の城門が建っていました。
「佐倉城址公園センター」 100名城スタンプや天守閣模型を設置

大手門を過ぎるとやがて城址公園東端の広い駐車場に至りますが、その一角には「佐倉城址公園センター」があります。造りとしては簡易的なこじんまりとした施設ですね。
日本100名城スタンプはこちらに設置。スタンプは建物の内外2か所に置いてあり、24時間365日対応なのが嬉しいな。

センター内にある貴重な古写真にしばし見入ります。
天守の役割だった御三階櫓の1/200模型もあった。土台に2段構えの段差があるのが特徴的ですね。
徳川家康命で土井利勝が近世城郭に改築

そして駐車場を抜けると、佐倉城址公園の入口に到着。
佐倉城址公園は、かつての本丸・二の丸・三の丸など、城の中心部を城址公園として整備したもの。
公園に隣接して国立歴史民俗博物館や植物園などもあり、一帯は歴史や自然を感じられる市民の憩いの場となっています。
ここで佐倉城の歴史概要をふり返ってみましょう。
佐倉城の歴史概要
■ 天文年間(1532~1552年):戦国時代中期に、千葉氏の一族である鹿島幹胤(かしまもとたね)が中世城郭として築城。
■ 慶長15年(1610年):江戸時代に入り譜代大名の土井利勝(どい としかつ)が佐倉に封ぜられと、翌年より約7年を掛けて佐倉城を近世の城に改造。以後、江戸を取り巻く要衝として譜代大名が次々と封ぜられた。
■ 明治維新後:廃城令により建物のほとんどが撤去される。

築城されている場所は、標高30m前後の台地の先端部。周囲の低地には北に印旛沼、西と南に鹿島川・高崎川といった自然の要害に囲まれていた。さらに、水堀・空堀・土塁などにより防御を固めていた。
城の配置は本丸・二の丸・三ノ丸が一列に並ぶ連郭式の平山城で、東側には武家屋敷や町屋などを配した城下町がつくられました。
「老中の城」と呼ばれた!?老中を最多輩出した城

建物は残っていませんが、復元された土塁や空堀などを体感しながら巡るのが、佐倉城址公園の楽しみ方だと思います。ちなみに江戸時代の城ですが、石垣は用いられませんでした。
ところで、佐倉城の歴代藩主には多くの譜代大名が封ぜられましたが、その内のなんと9人もの藩主が幕府の要職である老中格に抜擢されたというのが凄い!
これは全国最多の数だったため、「老中の城」なんて呼ばれ方もしたそうですよ。
このことからも、江戸時代には重要な位置付けの城だったことが伺えます。
「三の丸」 かつて家老屋敷があった場所

公園入口を抜けた先は三の丸跡。三の丸には家老級の重臣の屋敷が置かれました。
その入口にはかつて2階造りの木造門がありましたが、現在は案内板が残るのみ。
現在は森林公園の趣きですが、植えられているのは桜ですね。
城址公園内には約48種類・約740本の桜が植えられているそうで、県内でも有数の桜の名所となっています。”佐倉の桜”、語呂もなかなか良いですよね(笑)。
三の丸に残る富士塚跡

三の丸内に浅間坂という小道があったので進んでみる。

かつてこちらには、富士山を信仰する浅間神社があったそうだ。こんもりとした盛土は、富士塚の跡なんですって。
富士塚とは?
富士山信仰に基づき、各地の富士講の人々が築いた人工のミニチュア富士山のこと。
江戸時代の富士山参詣の流行とともに多く造られ、登拝することで富士山登頂と同じ御利益があるとされました。
富士塚というと庶民信仰のイメージがありますが、城内に築造されることもあったんですね。

今でも富士塚からは富士山が見える、とのことで登ってみましたが。。。、本日の景色はご覧の通りでした。

神社跡脇から森林に入ってゆく道は、本丸の裏手の方まで続きます。
この辺は城の南側のヘリに位置していて、坂を下ってゆくと城が台地に築かれていることを実感できる。
「出丸」 本丸背後の水堀を守る曲輪

先程の道を下り切ると、本丸の背後にある水堀に出ます。
写真は城の外側から水堀を見ていますが、左手のこんもりとした部分は「出丸」と呼ばれる小さな曲輪。
外敵に攻撃を仕掛けるために城郭の外側に張り出した曲輪で、本丸背後の南と西の2ヶ所に設けられています。写真は西側の出丸。
出丸は佐倉城の防御の特徴の一つです。

西側の出丸の一角にはこちらの薬医門がありますが、これは元々城内のどこかにあったといわれる門。
廃城後に移築して使用された門が寄付により戻ってきたもので、数少ない建築物の遺構として貴重とのこと。
「堀田正睦」 日米修好通商条約締結に尽力

再び台地の上に戻り、こちらは三の丸先にある二の丸入口の手前の辺り。
右手に堀田正睦(ほった まさよし)の像、道をはさんだ左手にタウンゼント・ハリスの像が立ちます。

堀田正睦は、歴代佐倉藩主の中では最も良く知られる人物です。
文政8年(1825年)に佐倉藩主となると、文武奨励により藩士の意識高揚を図るとともに庶民の生活の向上にも注力するなど、藩政改革を進めました。
天保12年(1841年)に幕府老中に就くと開国を唱えて、アメリカ総領事タウンゼント・ハリスと共に「日米修好通商条約」締結交渉に全力を傾けました。
堀田正睦が取り組んだ佐倉藩改革
天保14年(1843年)に、藩政改革の基本方針「天保の御制」を発布し、倹約の強化・農政改革・商業振興策の施策を実施。
(主な政策)
・倹約令の発布による財政改革
・人材育成を図るために藩校「成徳書院」を創設
・農民にも学問を広めるために村々に「郷学所」を設置
・新田開発の奨励や検地の実施
・洋学の奨励
ほか。財政再建の推進とともに、学問や西洋文化の導入にも積極的に取り組みました。

アメリカ総領事タウンセント・ハリスは日本の開国実現のために、大統領の親書を携え幕末に来日。正睦らとの交渉をへて、日米修好通商条約を締結しました。
2体の像は、日米修好通商条約150周年を記念して建立されたもの。
広大な空堀内に旧陸軍の遺構が残る

堀田正睦像の東側には、谷のような地形が広がっていた。どうやら空堀らしいので下ってみます。

谷の底に到着。
公園入口辺りから続いている広大な空堀だった。元々の地形を生かしたものなんじゃないかな。

これは昭和初期に造られた「旧佐倉連隊脂油庫」。
旧陸軍が銃の手入れに使用した油の保管庫で、貴重な戦争遺構なんだそうだ。

あずまや風の休憩所には将棋を楽しむ人々がいたりして、のどかだ。
公園内には茶道の先生が入れるお茶が頂ける、茶室「三逕亭(さんけいてい)」などもあります(有料)。
茶室・三逕亭
開園時間:10:00~15:30午後3時30分
料金:一服 800円(子ども 400円)
「二の丸」 政務の中心地だった二の丸御殿

再び台地上へもどり、堀田正睦像とハリス像に挟まれた道を二の丸に向かって進む。この辺りにも2階造りの「二の門」があったそうだ。
明治27年(1894年)には、俳人・歌人である正岡子規が佐倉を訪れている。その際に詠んだ句碑が近くに立っていた。

広々とした二の丸にはかつて延べ413畳の規模の「二の丸御殿」があり、藩主はそこで政務をおこなっていました。
その後、二の丸御殿が老朽化すると、今度は三の丸に造られた三の丸御殿が住まいとされた。堀田正睦も三の丸御殿で最期を迎えました。

二ノ丸の西側には佐倉城時代の建物の礎石が残っており、表面には柱を入れるための穴も確認できます。
これは明治時代に兵舎を建てた際にそのまま基礎として使用されたため、現在まで残ったらしいです。へえ~、って感じですよね。
「角馬出し」 巨大な空堀を復元整備

この辺りは二の丸を抜けた先の城郭の北側です。
主郭エリアへの入口にあたるこの辺りには、かつて「椎木門(しいのきもん)」がありました。

その椎木門を守る役割を持つのが、佐倉城の最大の見どころともいえる「角馬出し(かくうまだし)」の復元です。
角馬出しは堀を隔てて虎口(=出入口)の外側に設けられた小さな曲輪のことで、虎口を守る役割を持ちます。
周囲に土手が築かれており、外側からは中が見えない。それを生かし、密かに兵をためて一気に敵に攻めかかるとか、そんな奇襲戦法にも使われます。

空堀は明治時代に埋められましたが、発掘調査により長辺121m・ 短辺40m のコの字型で、深さは5.6mの規模と確認されました。
空堀は長辺・短辺は元の規模のまま、深さは約3mで復元されています。当時の規模感が感じられ、迫力があります!
堀の形状は薬研堀(やげんぼり)と呼ばれるV字型のもの。
元々はこの倍近くの深さがあったと考えると、これは一旦落ちたら上がってこれそうもない。なかなかえげつない空堀ですわ。
ちなみに、馬出しの北側の「椎木曲輪」には上級武士たちの武家屋敷がありましたが、現在は国立歴史民俗博物館が建っています。
「本丸」 本丸御殿は徳川家康・秀忠の宿所だった
周囲を土塁で囲んだ本丸

そして最後に訪れたのが、城の西南端部に位置する本丸跡。広々とした平地で、周囲は土塁に囲まれています。
本丸入口には、やはり木造2階造りの「一の門」があった。
佐倉城の主要な城門は9つあったそうだ。明治時代まではそれらが残っていたことを考えると、全部取り壊されてしまったのはなんとも残念。
一つぐらい残しておいてくれればと、うらめしく思っちゃいます。

台地の先端部に位置している本丸。
曲輪の南側・西側には高さ35m程の急崖があり、崖下は先程の出丸があった水堀です。北側と東側には、切り立ったV字型の空堀が造られています。
「銅櫓」太田道灌築の江戸城の櫓を移築

当時は土塁上の外周には、瓦塀がめぐらされていた。

土塁上の北西側にある「銅櫓(どうやぐら)」跡。ここには木造2階造りで、銅瓦葺がのった櫓があったそうだ。
この銅櫓は元々は江戸城の吹上庭内にあったが、新庭築造の際に不要となった櫓を土井利勝が将軍から拝領・移築したもの。
櫓は良材を用いて驚くほど精巧に造られた古建築で、江戸城を築城した太田道灌が風雅を楽しんだ建物であった、と推測されるとのこと。元は三層楼で二層に改造されたこと、などが藩の記録に残っている。
銅櫓も取り壊し前の写真が残っています。
「天守台跡」 天守の役割だった御三階櫓

これは土塁上にある御三階櫓が建っていた「天守台跡」。佐倉城では御三階櫓が天守の役割を果たしていました。
2段構えの地形になっており、本丸側から見ると4階建て、反対の崖下から見ると3階建てに見えるという、ちょっと変則的な建物だった。

御三階櫓は文化10年(1813年)の火災で焼失た後は、再建されませんでした。
「本丸御殿」 徳川家康・秀忠が鷹狩する際の宿所

天守台跡から見下ろした本丸全景。

かつて本丸には400畳余を有した「本丸御殿」があった。この御殿は徳川家康・秀忠が鷹狩に来た際、宿所として使われました。
本丸御殿は将軍用とされ、代々の城主は年始・五節句など以外は本丸御殿を常用せず、二の丸・三の丸内に居住しました。
佐倉城の御城印

京成佐倉駅前観光案内所で、記念に御城印を購入(300円)。
御三階櫓と県下有数の桜の名所のイメージ。そして、堀田氏の家紋が背景に描かれています。
御城印販売所
京成佐倉駅前観光案内所
住所:千葉県佐倉市栄町8−7(GoogleMapで開く)
JR佐倉駅前観光情報センター
住所:千葉県佐倉市六崎169-17(GoogleMapで開く)
佐倉ふるさと広場売店「佐蘭花」
住所:千葉県佐倉市臼井田2714-2714(GoogleMapで開く)
ネット販売:佐倉市観光協会(公式ページ)
明治時代の初めにはまだこれだけ様々な城が残されていたんですね。
貴重な写真の数々に思わず釘付け!
佐倉城址公園の詳細情報・アクセス
佐倉城址公園
公式ページ
住所:千葉県佐倉市城内町官有無番地(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・京成線「京成佐倉駅」より、徒歩約20分
・JR「佐倉駅」より、徒歩約25分
・京成線「京成佐倉駅」南口、又はJR「佐倉駅」北口より、ちばグリーンバスの田町車庫行き乗車、「国立博物館入口」又は「国立歴史民俗博物館前」下車、徒歩約5分
車)
・東関東道「佐倉IC」から県道佐倉印西線経由で約6km・約15分
・駐車場あり(桜・菖蒲のシーズン中は駐車場が満車になるので注意)
佐倉のランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
\ 佐倉の返礼品は農産物や加工品が種類豊富で目移りする!/
周辺おすすめスポット(佐倉武家屋敷ほか)
~近隣スポット~
佐倉武家屋敷
土塁と生垣が続き、江戸時代の城下町の面影が残る武家屋敷通り。
関東に残る武家屋敷群としては最大級で、佐倉藩士が住んでいた3棟の武家屋敷が公開されています。
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佐倉武家屋敷
住所:千葉県佐倉市宮小路町57番地(GoogleMapで開く)
※佐倉城址公からは徒歩約20分(約1.5km)。バスにて最寄り「宮小路町」まで約13分。
国立歴史民俗博物館
佐倉城址公園に隣接した、日本の歴史や文化をテーマにした博物館。
国立の博物館だけあって、展示物はかなりのボリュームがある。時間の余裕を持って出かけたい。
佐倉城跡へ出かけてみませんか?
江戸時代に整備された巨大な土の城跡、佐倉城跡を紹介しました。
城址公園の敷地はかなり広大なので、隅々まで歩くと結構な時間を要します。
また近隣には貴重な武家屋敷が残っているので、そちらも是非あわせて立ち寄りたいスポットです。
ということで、見どころの多い佐倉城訪問の際は、是非時間の余裕を持ってお出かけ下さい。
佐倉城跡へ出かけてみませんか?
記事の訪問日:2023/8/11




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