東京都世田谷区の現在豪徳寺がある周辺には、かつて世田谷城がありました。
じつは豪徳寺の境内自体も城の一部だったんですよ!
世田谷城は吉良氏が築城した城といわれ、豊臣秀吉の小田原城攻めに伴い廃城になるまでの約200年以上、吉良氏の居城として使用されました。
世田谷城阯公園にはその城郭の一部とされる土塁や空堀の跡が残されており、城跡の面影を感じながら散策することができます。
目次
かつての城郭跡が残る「世田谷城阯公園」を歩く
豪徳寺の参道から見える土塁跡
この日は、最初に訪問した豪徳寺から世田谷城阯公園に向かいました。
豪徳寺の正面には、雰囲気のある松並木の参道が続いています。
参道の豪徳寺山門前からは、隣接する都営住宅の敷地がちょこっと見えるようになっていた。
そこには城の土塁跡とわかる盛土が、参道に沿って続いていました。
へぇー、豪徳寺のこんな近隣にも遺構が残っているだ、と思いつつ参道を後にします。
吉良氏の居城として200年以上続いた世田谷城
豪徳寺から歩いて1~2分の近隣にある「世田谷城阯公園」へ。
世田谷城阯は東京都の文化財に指定されており、歴史公園という形で土塁や空堀などの城郭の面影が残されています。
世田谷城は、清和源氏・足利氏の一族である吉良(きら)氏の居城でした。
世田谷城の歴史概要
■南北朝時代の貞治5年(1366年)に、吉良治家(はるいえ)により築城されたと伝わる。
■吉良氏は室町時代にはこの地に領地を持つようになり、諸大名からは「世田谷吉良殿」と称され一目置かれていたと伝わる。
■15世紀後半には江戸城・太田道灌と同盟関係を結び、武蔵国の中心勢力として繁栄。
■吉良頼康(よりやす)の代に、小田原北条氏との縁戚関係をもつ。
■天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原城攻めにより北条氏没。それに伴い吉良氏は上総国生実(かずさのくにおゆみ)(現千葉市)に逃れ、世田谷城は廃城となった。
■江戸時代に入ると、当地は彦根藩井伊家の所領となる。
城内にあった吉良氏の小庵であった弘徳院が、豪徳寺の前身となったといわれる。
ちなみに吉良氏の家系は、西方の三河吉良氏と東方の奥州(武蔵)吉良氏に分かれていました。
世田谷城を築城した吉良氏は、奥州(武蔵)吉良氏の家系。
吉良氏というと忠臣蔵の吉良上野介(こうずけのすけ)の名が思い浮かびますが、こちらは三河吉良氏の流れでした。
豪徳寺を城の中心だった!?世田谷城の縄張り
世田谷城は武蔵野台地上にあり、南東に張り出した舌状台地の先端部に立地。
東西南の三面は目黒川支流の烏山川(からすやまがわ)の蛇行に囲まれ、北側は谷、という自然の要害を持っていました。
また、江戸と府中を結ぶ滝坂道と鎌倉道が交わる、交通の要衝地でもありました。
案内板で世田谷城の範囲や、縄張り想定について解説されていた。
世田谷城は大まかに、「吉良氏館」と「詰城」により構成されていたと考えられる。
城主居館「吉良氏館」は、現在の豪徳寺がある場所だったと推定されている。
「詰城」の中心となる郭は、現在の豪徳寺北側の都営住宅がある場所。
地図上で郭(A)と記載されている部分で、南北約120m・東西約60mほどの広さで土塁に囲まれていた。
詰城は敵に攻められた際に立て籠もるための郭で、周囲を土塁や空堀が複雑に取り囲んでいました。
城阯公園に残っているのは、詰城を構成する土塁や空堀の一部。
公園は東側(写真右手)の郭跡、西側(左手)の土塁跡、中央を分断する空堀跡で構成されています。
現在の豪徳寺が城の中心部だった、というのは事前知識がなかったため意外な発見でした。
公園内で一番大きな郭跡へ
まずは公園東側にある、一番大きい郭跡に上がってみます。
ちなみに公園内にある石垣は、公園整備の際に造られた現代のものです。
上がると広々とした郭にでます。
緑を楽しみながら散策できる、気持ちの良さそうな空間です。
当時は櫓などの建物もあったのでしょうかね?
一角には世田谷区による案内板。
公園を分断する空堀を歩く
次に公園中央部に続いている空堀跡を歩いてみます。
中央の細長い郭を囲むように、二筋の空堀が続きます。
空堀と郭は北側に続いていますが、途中からは私有地になりその先は入れません。
土塁のふちはおそらく削られたうえで、石垣風の石材で固められています。
空堀はかつては深さがもっとあったのでしょうね。
公園化の際に手を加えられてはいますが、それでもかつての城の面影は十分残っています。
高級住宅街として知られる世田谷に、これだけの城郭跡が残っているのにはちょっと驚きですわ。
空堀を進んでゆくと、やがて柵が現れ行き止まり。
公園化されていないこの辺りの土塁が、実は当時の旧状を良く残している箇所ともいえます。
草ボーボーでちょっと分かりづらいですが。。。
結構高さがある西側の土塁跡
公園西側の土塁に上がってみました。
公園全体を俯瞰。
土塁や空堀が入り組んでいたであろう面影が残ります。
手前の小さな空堀には、古風な雰囲気の小さな橋が架かっています。
公園の入口側ですが、こう見ると土塁の高さは結構ありますね。
公園前の通りは城山通りと呼ばれます。
城山通りを越えて少し南に歩くと、「烏山川緑道(からすやまかわりょくどう)」という散策路があります。
これは世田谷城の自然の外堀として利用された烏山川が、地中に暗渠(あんきょ)化された上に造られた遊歩道なんですね。
烏山川緑道はかつての世田谷跡の南側を囲むように続いているので、散策してみるもの一考かと。
世田谷城阯公園の詳細情報・アクセス
世田谷城阯公園
住所:東京都世田谷区豪徳寺2丁目14-1(GoogleMapで開く)
アクセス:
電車)
・東急世田谷線「宮の坂駅」から徒歩5分
・小田急線「豪徳寺駅」から徒歩15分
車)
・駐車場なし
最寄り駅までのアクセス(渋谷から)
・東急電鉄「渋谷駅」から東急田園都市線乗車約5分にて「三軒茶屋駅」下車。東急世田谷線乗車約10分にて「宮の坂駅」下車。
・京王線「渋谷駅」から京王井の頭線乗車約6分にて「下北沢駅」下車、小田急小田原線乗車約4分にて「豪徳寺駅」下車。
世田谷周辺ランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
明治時代の初めにはまだこれだけ様々な城が残されていたんですね。
貴重な写真の数々に思わず釘付け!
周辺おすすめスポット(豪徳寺ほか)
豪徳寺
彦根藩藩主・井伊家の菩提寺で、井伊直弼をはじめ歴代藩主が眠る墓所があります。
招き猫の発祥地ともいわれており、境内では沢山の可愛い招き猫に出会えます!
あわせて読みたい
豪徳寺は大老を輩出した井伊家の菩提寺、大名墓所が当時を偲ばせる【東京・世田谷区】
世田谷にある古刹、豪徳寺。豪徳寺は世田谷を領地として所有した、彦根藩藩主である井伊家の菩提寺でした。境内に残る江戸時代の建築物は、井伊家との強いつながりを感…
松陰神社
幕末の思想家であり教育者であった吉田松陰を祀る神社です。
松陰神社
住所:東京都世田谷区若林4-35-1(GoogleMapで開く)
※世田谷城阯公園から歩いて約12分(約1km)。
さらに「東京都」に関する記事を探す
世田谷城へ出かけてみませんか?
世田谷城跡は世田谷の住宅街の一角にありながら、気軽に城跡歩きで歴史を感じることができる貴重なスポットでした。
豪徳寺や松陰神社などとともに、訪問してみませんか?
記事の訪問日:2024/1/14
世田谷周辺の立寄りスポットを探して予約しよう!割引プランも!
空堀や土塁が残る城跡をさらにチェック!
あわせて読みたい
水戸城の空堀は圧倒的!大手門の復元で一段と見どころ増す【茨城・水戸市】
「水戸城跡」では、令和に入って巨大な大手門と二の丸角櫓が復元されました。近年整備が進んでおり、城跡としての見どころが増えつつあります。水戸城は、水戸黄門こと…
あわせて読みたい
鉢形城、北条氏らしい堀や土塁が城好きを唸らせる城跡【埼玉・寄居町】
埼玉県寄居町にある鉢形城跡は荒川の断崖絶壁を要害にした、戦国時代を代表する小田原北条氏の城郭跡です。広大な範囲にわたる縄張り跡と、北条氏らしい特徴を持つ堀や…
あわせて読みたい
上杉謙信撃退も納得!「金山城」は石垣堅固な巨大山城【群馬・太田市】
群馬県太田市にあった「金山城」は、関東では珍しい石垣を持つ戦国時代の山城でした。縄張りがほぼ山全体に展開されている城跡で、石積土塁に囲まれた大手虎口に圧倒さ…
あわせて読みたい
なぜ山城「杉山城」は築城の教科書と呼ばれるのか?登城して体感してみた【埼玉・嵐山町】
埼玉県嵐山町にある「杉山城跡」は、自然の地形を生かした戦国時代の山城跡です。続日本100名城の一つに数えられ、城郭ファンからは「築城の教科書」とも呼ばれる人気の…
さらに「城」に関する記事を探す
関東近郊へは、気軽なバス旅で出かけてみない?