埼玉県所沢市をホームとするプロ野球チームの西武ライオンズが、毎年開幕前に必勝祈願をおこなっているのが地元の狭山不動尊です。
この狭山不動尊、実はとても不思議な寺院なんです。
境内にはなぜか、重要文化財に指定されている徳川2代将軍秀忠の霊廟(墓所)にあった門をはじめ、各地の歴史的な建造物が残っており驚かされます。
それらの貴重な文化財をめぐりながら、謎多き狭山不動尊の成り立ちや歴史を紐解いてみます。
目次
「狭山不動尊」増上寺にあった徳川秀忠霊廟の門が残る不思議な寺院
狭山不動尊の最寄り駅である西武鉄道の西武球場前駅で下車すると、目の前に西武ライオンズのホーム球場のベルーナドームがドドンと現れます。
ライオンズ戦の開催日だったため、球場前は多くの人々でにぎわっていました。
そんな楽し気な雰囲気を横目に東に向かって歩いてゆくと、5分も掛からずに狭山不動尊入口に到着です。
狭山不動尊の正式名称は狭山山不動寺で、不動明王を本尊とする天台宗の寺院です。
昭和50年(1975年)、西武グループの当時のオーナーであった堤義明氏が開基しました。
「台徳院霊廟 勅額門(重要文化財)」 徳川将軍秀忠の墓所の門
入口を入るとさっそく現れるのが、国重要文化財指定されている「勅額門(ちょくがくもん)」です。
元々は徳川家台徳院(たいとくいん)(徳川2代将軍秀忠の戒名)の霊廟(墓所)の門として、東京都芝の増上寺に建てられたものが、移築されています。
凄く貴重な建造物ですね。
寛永9年(1632年)、3代将軍徳川家光が父・秀忠への報恩のために建立したものです。
額の文字は当時の天皇であった後水尾天皇(ごみずのおてんのう)の筆によるものなのが、勅額門と呼ばれる由縁です。
左右の柱から突き出て、額に向かって伸びる添木のような部分が独特的です。
門には彩色された細やかな彫刻が見られます。
勅額の横には、獅子や牡丹の彫刻が彫られています。
梁の部分には金色の龍や雲などが描かれており、徳川家の葵の御紋が各所に配されています。
塗装に退色や剥がれなどが見られますが、元々は極彩色に輝いていたんだろうなあ、と当時に思いを馳せます。
勅額門の右手にあった樹齢500年の銀杏の木大は、かつて太田道灌が城砦を構えた城山城趾にあったもの、との説明でした。
どこの城趾だったのか?興味があり後で調べてみましたが不明でした。
「台徳院霊廟 御成門(重要文化財)」勅額門とともに徳川家光が築造
そして勅額門の先の石段上には、こちらも重要文化財の「御成門(おなりもん)」がそびえ立ちます。
こちらも徳川家光が増上寺の台徳院霊廟の門として、勅額門と同時期に建立しました。
切妻造りの屋根ですが、妻入り(屋根が三角に見える方から入る)の門というのが珍しいです。
蛇足ですが、階段のキワに立っているんで、正面からの写真が撮りづらい場所でした。
増上寺の徳川家御霊屋は太平洋戦争で被災してますが、被災前の写真や配置図などにより当時を知ることがでます。
複数の門がでてきた台徳院霊廟のについて、当時の建物配置を確認してみましょう。
増上寺台徳院霊廟の被災前の建物配置
・「惣門(芝公園に現存)」から入り参道を進むと、「勅額門(狭山不動尊に現存)」がある。
・勅額門を入った右方・北隣に崇源院(秀忠夫人)の霊牌所があり、その入口には「丁子門(狭山不動尊に現存)」があった。
・参道を進むと、透塀に囲まれた権現造りの「御霊屋」がある。
・御霊屋の本殿北側に奥院(墓所)があるが、その途中に「御成門(狭山不動尊に現存)」がある。
・奥院には拝殿・中門・玉垣があり、玉垣に囲まれて「宝塔(墓塔)」があった。
写真も残っている墓所の宝塔は装飾華麗で芸術的でしたが、木製だったため残念ながら焼失しています。
狭山不動尊に残っている「丁子門」は、ここと反対側の境内北側にあるので後ほどご紹介します。
\ 増上寺の詳細についてはこちら!/
御成門の話にもどりますが、建物全体的は朱色が基調とされています。
そして、屋根下中央で金色に輝く天女の彫刻がひときわ目立ちます。
内部の天井にも天女が描かれており、「天人門」という別名が付いています。
立体感を感じさせる装飾には、置上(おきあげ)彩色という技法も使われているようです。
これは絵の具を厚く盛り上げて立体感をだす、という繊細な技法です。
裏手から内部を見上げると格天井の中央に独特の丸い鏡天井があり、そこに天女が描かれています。
御成門の位置から勅額門を見下ろす。
背後にはベルーナドームが見える、今昔の建造物の同居が楽しめるビューポイントでした。
「不動寺総門」長州藩・毛利家の上屋敷門
御成門を後にして進むと、本堂入口正面に「不動寺総門」が現れます。
見下ろすような威圧感を感じさせる門ですが、これは長州藩主・毛利家の江戸の屋敷の門が移築されたもの。
かつての長州藩上屋敷は江戸城桜田門外にあり、約1万7千坪の広大な敷地を持っていました。
場所は現在の日比谷公園の一部と法務省にあたります。
\ 日比谷公園の江戸城遺構についてはこちらへ!/
総けやき造りの門で、武家屋敷らしい直線的なデザインが特徴です。
しかしこんな貴重な門が残ってるんですねえ。しかも意外な所に。
ユネスコ村から発祥した狭山不動尊
本堂は平成13年に建立された比較的新しい建物です。
かつては京都東本願寺から移築した七間堂が本堂として使用されていたそうですが、残念ながら焼失しています。
ここで、なぜ狭山不動尊に寛永寺などの歴史的な建物があるのか?その歴史を紐解いてみます。
~ 西武グループがユネスコ村を開園 ~
・西武鉄道が昭和26年(1951年)に、「ユネスコ村」という遊園地を当地に設立した。
これは日本のユネスコ加盟を記念したテーマパークで、オランダの風車をはじめ各国の建物が集められた。
~ 増上寺が御霊屋地を西武グルーブに売却 ~
・徳川将軍家菩提寺の寛永寺には、2代将軍秀忠ほか6人の将軍の御霊屋(墓所)があった。
しかし昭和20年(1945年)の太平洋戦争の被災により、建造物のほとんどが焼失し荒廃。
・再建のために本堂南北の御霊屋だった敷地は、西武グルーブに売却された。
霊廟は発掘調査され、遺体は火葬された後に現在の増上寺徳川家墓所に埋葬された。
~ 増上寺建築物の一部をユネスコ村に移築 ~
・西武グループは昭和39年(1964年)の東京オリンピックに合わせ、増上寺の御霊屋跡に東京プリンスホテルやゴルフ場などの施設を建設。
この際に残っていた建築物の一部を保存のためにユネスコ村に移築し、狭山不動尊が建立された。
・ユネスコ村自体はその後廃止され、狭山不動尊が寺院として残っている。
昭和の激動期における歴史が、狭山不動尊設立の背景にはあったようですね。
「第二多宝塔」嘉吉の乱で知られる赤松教康が建立
境内の西側を進むと、立派な多宝塔が見えてきました。
「第二多宝塔」と呼ばれるこちらは、兵庫県東條町天神の椅鹿寺から移築されたもの。
播磨国守護の赤松満男教康(のりやす)が、室町時代の永享7年(1435年)に建立したと伝わります。
室町時代中期の建築様式の特徴が良く残るとされます。
建立した赤松教康(のりやす)は、嘉吉(かきつ)元年(1441年)に嘉吉の乱を起こしたことで知られます。
父・赤松満祐(みつすけ)らと共に、時の将軍 足利義教(よしのり)を暗殺した事件です。
塔の隣に立つこちらは、孔子廟としてユネスコ村時代に建てられた建物です。
現在は康信寺という扁額が掛かります。
「桜井門」門前に増上寺から移築した石灯籠が並ぶ
西側の入口に立つ「桜井門」は、奈良県十津川の桜井寺の山門として建立されたもの。
桜井寺は、幕末の倒幕急進派だった天誅組(てんちゅうぐみ)が文久3年(1862年)に挙兵した際、本陣として利用したことで知られます。
桜井門から続く参道の両脇には、石灯籠がずらっと並びます。
石灯籠の銘文を見ると清揚院(せいよういん)殿とありました。
これは増上寺に墓所がある、甲斐国甲府藩主だった徳川綱重の戒名です。
徳川綱重は徳川家光の3男で、第6代将軍・家宣の父にあたります。
この石灯籠も増上寺から移築されたものでした。
「大黒堂」東叡山寛永寺山内の大黒天を祀る
「大黒堂」は、奈良の極楽寺境内の歌塚堂が移築されたもの。
飛鳥時代に歌聖といわれた歌人・柿本人麻呂のゆかりの地で、歌人たちが歌会を開いた堂宇と伝わります。
本尊は、上野の東叡山寛永寺山内より迎えた大黒天とのこと。
ここでもう一つの徳川家将軍家の菩提寺、寛永寺の名がでてくるのも凄い。
狭山不動尊開山時には、寛永寺の助力があったとされます。
寛永寺は昭和33年(1958年)、浅間山鬼押出しに別院「浅間山観音堂」を創建しています。
鬼押出し園の運営会社は西武グループだったので、そこで両者のつながりができたのかもしれませんね。
「羅漢堂」井上馨邸の建物と無数の唐金灯籠
こちらの山門は虎の門にあった元田中平八邸より移築されたもの。
田中平八は、明治時代に生糸相場で財を成し「天下の糸平」と呼ばれた実業家だそうだ。
その門に徳川家の葵の紋が付いていたのが、ちょっと謎だったが。
閉ざされた門の中には入れませんでしたが、柵の隙間からは敷地中央にある「羅漢堂」が見えます。
「羅漢堂」は、明治の元勲・井上馨(こわし)の屋敷にあった建築物。
明治28年(1895年)の井上馨の還暦祝賀の際に、山縣有朋・伊藤博文・大隈重信等を発起人として建立された堂です。
そしてその周囲にずらっと並ぶ、無数の唐金灯籠が圧巻でした。
唐金とは青銅のことです。
増上寺の台徳院霊廟に全国の大名が献納した灯籠でした。
弁天堂(旧清涼寺経蔵)と弁財天
特徴的な六角の「弁天堂」は、滋賀県彦根市古沢町の清涼寺から移築されたもの。
清涼寺は彦根藩3代藩主・井伊直孝が、井伊家の菩提寺として開基した寺院。
徳川四天王の一人にも数えられ彦根藩初代藩主である、井伊直政の墓所でもあります。
この弁天堂は井伊直孝の息女が父・直孝の供養のために、万治2年(1659年)から元禄6年(1693年)の間に建立したとされます。
堂内に弁天様をお祀りしているが、これも東叡山寛永寺内にお祀りされていた尊天を譲り受けたものとのことだ。
「第一多宝塔」安土桃山時代の特色を残す
本堂の右手(東側)にはもう一つの多宝塔、「第一多宝塔」があります。
大阪府高槻市の畠山神社から移築された塔です。
墨書より慶弔12年(1607年)の建築物であることがわかっています。
装飾や建築手法には安土桃山時代の特色が良く表れている、といわれます。
「桂昌院の宝塔」5代将軍綱吉の生母の宝塔
第一多宝塔の脇に、ポツンと青銅製の宝塔があります。
案内板も特になかったのですが、後で調べたらこれは増上寺の桂昌院(けいしょういん)墓所にあった宝塔だったらしいです。
ここには宝塔が残るだけで墓所は増上寺にあります。
桂昌院は徳川3代将軍家光の側室で、5代将軍綱吉の生母でした。
「丁子門(重要文化財)」徳川秀忠夫人霊牌所の門
最後に本堂東側の裏手にひっそりとたたずむ、徳川家崇源院(すうげんいん)(徳川秀忠夫人)の霊牌所の通用門「丁子門」へ。
こちらも重要文化財に指定されています。
丁子門は徳川家光により、寛永12年(1635年)に建立されたものです。
赤と緑の配色により独特の風合いを感じさせます。
花頭窓が付いていますね。
黒塗りの塗装部分はだいぶ色落ちしてました。
崇源院は秀忠夫人の戒名ですが、一般には江(ごう)と呼ばれていました。
父は戦国大名・浅井長政(あざい ながまさ)で、母は織田信長の妹のお市の方でした。
浅井長政には三姉の江を含めて娘が3人おり、長姉の茶々(淀殿)は豊臣秀吉の妻に、次姉の初(常高院)は京極高次に嫁いでおり、浅井三姉妹として歴史上よく知られています。
徳川家墓所の移築時に調査された御遺体を中心にした、数々の貴重な記録。
骨からわかる将軍の生活や特徴が記され、非常に興味深い。
狭山不動尊の詳細情報・アクセス
狭山不動尊
公式ページ
住所:埼玉県所沢市大字上山口2214(GoogleMapで開く)
拝観時間:9時~16時
アクセス:
電車)
・西武狭山線・山口線(レオライナー)「西武球場前駅」から徒歩約5分
車)
・桜井門前に無料駐車場あり(15台分)
所沢ランチは事前予約やクーポン利用で、並ばずお得に!!
周辺おすすめスポット(山口観音ほか)
山口観音(金乗院)
こちらも西武球場前駅近くにある、エキゾチックな雰囲気を感じさせる寺院です。
六角形の珍しい五重塔のほか、石洞や竜の石段など境内の見どころが多いです。
多摩湖・狭山公園
ダム湖百選に選定されている多摩湖と、都選定歴史的建造物に選定されている取水塔の組み合わせがとても美しい景観をつくります。
武蔵野の面影を残す狭山公園の自然も貴重。
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狭山公園
住所: 東京都東村山市多摩湖町3-17-19 (GoogleMapで開く)
※西武球場前駅から西武山口線に約7分乗車、多摩湖駅下車。
角川武蔵野ミュージアム
隈研吾氏が設計した、驚くべき形をした建物のミュージアムに度肝を抜かれる。
ショップやレストラン施設のあるサクラタウン内にあるので、ミュージアム以外も色々楽しめる。
西武球場前駅からは離れていますが、行き帰りに立ち寄ってみるのはいかが?
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住所:埼玉県所沢市東所沢和田3-31-3 (ところざわサクラタウン内)
アクセス: 電車)JR武蔵野線 東所沢駅から徒歩10分
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狭山不動尊へ出かけてみませんか?
不思議ワンダーランドな寺院、狭山不動尊をご紹介しました。
重要文化財3点を含む貴重な建築物が残っており、あたかも歴史博物館を見学したような充実感がありました。
特に重要文化財3点に関しては、今後の建築物の保護や修復についても期待したいですね。
狭山不動尊を訪問してみませんか?
記事の訪問日:2024/8/13
関東近郊へは、気軽なバス旅で出かけてみない?